ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2008年9月28日


2008年9月28日 主日礼拝説教
「サウル王への思いやり」(サムエル記第一31章)

■はじめに
 先回は28章を読みました。サウルは、ペリシテとの戦いに勝利できるよう神様のみこころを求めました。しかし、神様からの答えがありません。そこでサウルは神様が禁じておられる霊媒を使って死んだサムエルの霊を呼び出し、神様のみこころを知ろうとしました。
 サムエルから告げられたのは、イスラエルの敗北とサウル自身の死でした。サウルは失意の中、霊媒の女のもとから去っていきました。

■ペリシテとの戦いとサウルの死
 サウル率いるイスラエルとペリシテの最後の戦いです。

1ペリシテ人はイスラエルと戦った。そのとき、イスラエルの人々はペリシテ人の前から逃げ、ギルボア山で刺し殺されて倒れた。2ペリシテ人はサウルとその息子たちに追い迫って、サウルの息子ヨナタン、アビナダブ、マルキ・シュアを打ち殺した。

 31章は、イスラエルがペリシテの攻撃に耐え切れず、すでに総崩れとなって敗走している場面から始まります。勢いに乗ったペリシテ軍が、逃げ出すイスラエル軍を次々と倒していく。サウル王を守ろうと、そのまわりを息子たちと側近の家来たちが囲んで、必死の抵抗を続ける。そのような様子を想像できます。
 しかし、ついにペリシテ軍は彼らに追い迫り、サウルの3人の息子たちを殺しました。ダビデの親友であり、最大の理解者であったヨナタンも戦死しました。
 ここには名前が出ませんが、サウルのもうひとりの息子イシュ・ボシェテが生き残ります。彼はサウルの後継者として名乗りをあげ、短い間ですがダビデと王位を争うことになります(Uサムエル2-4章)。

3攻撃はサウルに集中し、射手たちが彼をねらい撃ちにしたので、彼は射手たちのためにひどい傷を負った。

 サウルはその名を知られた勇士でした。ペリシテ軍は遠巻きにしてサウルに矢を射かけ、その矢がサウルに致命的な傷を与えました。

4サウルは、道具持ちに言った。「おまえの剣を抜いて、それで私を刺し殺してくれ。あの割礼を受けていない者どもがやって来て、私を刺し殺し、私をなぶり者にするといけないから。」

 しかし、道具持ちは、王を殺すことをためらいました。神様から油を注がれた王に手を下すことを非常に恐れ、「とてもその気になれなかった」からです。

4そこで、サウルは剣を取り、その上にうつぶせに倒れた。5道具持ちも、サウルの死んだのを見届けると、自分の剣の上にうつぶせに倒れて、サウルのそばで死んだ。6こうしてその日、サウルと彼の三人の息子、道具持ち、それにサウルの部下たちはみな、共に死んだ。

 戦いは終わりました。「あなたは明日死ぬ」という神様のことばに、彼は潔く従いました。いや、従わざるを得なかったのかもしれません。彼は戦いを戦い抜き、武将として立派に最期を遂げました。

■サウルの死後に起こったこと
 サウル王が死んだことにより、ペリシテの支配地が広がったことが7節で述べられます。「谷の向こう側とヨルダン川の向こう側」に住んでいたイスラエル人が町々を捨てて逃げ去ったので、そこにペリシテが住み着きました。かなりの地域がペリシテの支配下になりました。

8翌日、ペリシテ人がその殺した者たちからはぎ取ろうとしてやって来たとき、サウルとその三人の息子がギルボア山で倒れているのを見つけた。9彼らはサウルの首を切り、その武具をはぎ取った。そして、ペリシテ人の地にあまねく人を送って、彼らの偶像の宮と民とに告げ知らせた。

 ペリシテ人はサウルの武具を、ペリシテの神であった「アシュタロテ」の宮に奉納し、サウルと息子たちの死体を「ベテ・シャンの城壁に」さらしました。そこはギルボア山の近く、交通の要衝の地でした。ペリシテにとって、イスラエルの王に勝利し、その地がペリシテの支配地になったことを知らせる意味がありました。
 そこに登場したのが、「ヤベシュ・ギルアデの住民」たちです。

11ヤベシュ・ギルアデの住民が、ペリシテ人のサウルに対するしうちを聞いたとき、12勇士たちはみな、立ち上がり、夜通し歩いて行って、サウルの死体と、その息子たちの死体とをベテ・シャンの城壁から取りはずし、

 「ヤベシュ・ギルアデ」の人たちはかつて、アモン人の手に陥りそうになった時、サウルがイスラエルを招集して住民を救ってくれたことを忘れていませんでした(Tサムエル11章)。サウルが城壁にさらされているとの知らせが彼らのもとに届くと、勇士たちは立ち上がり、夜通し歩いて「ベテ・シャン」まで行き、サウルと息子たちの死体を受け取り、それをヤベシュに持ち帰って焼き、その骨を葬って、7日間断食をしてサウルの死を悼んだのでした。

■サウルの生涯
 サウルは、イスラエルの国民が周りの国と同じように王がほしいと願ったことから、歴史に登場しました。それまでイスラエルは、神のことばを聞いた指導者が危機の時にその都度イスラエルを導きました。それが士師たちであり、預言者たちでした。イスラエルは神様が直接治めてきた国でした。それでは物足りないと感じた人々が、政治的安定を願って王を求めたのでした。
 サウルは美男子で、だれよりも背が高く、英雄・豪傑の風貌を備えている勇者でした。サウルは、民衆の圧倒的な支持を受け王としての歩みを始めました。サウルは、イスラエルを脅かす敵たち、東のアモン、西の強敵ペリシテと戦い、次々に勝利し、イスラエルの支配地を広げていきました。
 ここで、サウルに慢心の思いが出ます。神様から王として立てられ、神様の導きによってここまで来ることができたのに、それを忘れ、自分で何かを決めることができるかのように錯覚してしまったのです。
 サウルがイスラエルの王位から決定的に退けられたのは、南のアマレクとの戦いの時でした。「アマレクを聖絶せよ」という神様の命令に従わず、自分の判断で良いものを残し、滅ぼし尽くさなかったのです。神様はこの時以来サウルから離れ、「サウルをイスラエルの王としたことを悔やまれ」ました。
 イスラエルの次の王として、神様に遣わされたサムエルからひそかに油を注がれたのが、羊飼いの少年ダビデでした。ダビデの名前を広くサウル王と民衆に知らしめた出来事が、ペリシテの戦士ゴリヤテとの一騎打ちでした。巨人ゴリヤテに杖と石投げで立ち向かい見事に打ち取ったダビデは、サウル王に召し抱えられました。そしていつしかダビデは、サウルをしのぐ戦果をあげ、国民的な人気を得るようになります。
 このままでは、自分の王朝はダビデにとって代わられてしまう。そう感じたサウルは、ダビデを殺そうと謀ります。ダビデはサウルから逃げ、王候補でありながら流浪の月日を過ごすことになります。しかしその間にもダビデは力を蓄え、ダビデのもとには多くの勇士たちが集まって、次の王としての実力を備えていくのでした。
 一方サウル王はペリシテとの最後の戦いで敗れ、命を落としてしまいました。サウル王の死によって、イスラエルは王政が始まる以前の領土と、政治的に不安定な国に戻ったかのようになりました。王を望んだイスラエルの人たちは、王が国を救い、国を導くのではないことを思い知らされました。イスラエルの人々は、神様の導きを信じ神様のみこころに従って歩む王が、イスラエルには必要であることを知りました。
 偉大な指導者であった預言者サムエルはすでになく、これからイスラエルはどうなっていくのか。サウルの残された息子が、サウル家の2代目の王として立つのか。あるいは、南のユダの山地で実力を蓄えてきたダビデが、人々の支持を得て次の王となるのか。それは、サムエル記の後半で明らかになっていきます。

■神のみこころに従ったお方
 サウルは、「民のうちだれも、この人に並ぶ者はいない」と言われた優秀な人物でしたが、神様のご意思に従い通すことができませんでした。サウルは、イスラエルの歴史を動かし世界の歴史を支配される神様よりも、自分の考えを優先させて行動してしまい、神様に全くゆだねるということができませんでした。
 人はだれでも自分の思いのままに生きようとします。しかし、すべての人が生まれつき罪の性質(いのちを与えてくださる神様に背く性質)を持っているので、その人生がどんなにうまくいったように見えても、神様から離れてしまった人の行き着く所は死です。

ローマ人への手紙6:21「その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。」

 神様は、神様から離れて永遠の滅びに向かっていく私たち人間を心からかわいそうに思ってくださり、ひとり子のイエス様をこの世に遣わしてくださいました。イエス様は王や貴族の家には生まれず、貧しいナザレの夫婦の家に生まれて、神の子としての生涯を歩まれました。そして一生の間、貧しい人や病気の人や見下されている人たちといっしょに歩んでくださり、最後は十字架にかかって死なれました。このイエス様の十字架こそ、遠い昔から神様がご計画なさっていた救いの道でした。罪のない神の御子イエス様が私たちの代わりに罪の罰を受けて十字架で死んでくださいました。私たちは生きている限り罪の性質が残る罪人(つみびと)ではあるのですが、神様はイエス様の十字架に免じて私たちをこのままの状態で受け入れてくださり、イエス様を信じるすべての人に永遠のいのちを与えて生かし、成長させてくださるのです。

ヨハネの福音書11:25「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。』」

ローマ人への手紙6:22−23「しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」

 滅びて当然の私たちをご自分の命をかけて救い出してくださったイエス様。

ヨハネの福音書8:12「イエスは彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」」

 イエス様は十字架の死に至るまで、父であられる神様のみこころに従い通されました。そのイエス様が「わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」とおっしゃってくださいます。このおことばを喜んで信じ、感謝して、私たちはイエス様に助けていただき、導いていただきたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2008年9月28日