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2008年10月5日 主日礼拝説教
「わたしはあなたを愛します」(マルコの福音書1章1節〜11節)
■マルコの福音書の表題
1神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
マルコの福音書の書き出しです。原文では「はじめ、福音、イエス・キリスト、神の子」の順になっています。
「福音」は良い知らせという意味を持つことばです。
「イエス」は、ヘブル人の名前ヨシュアをギリシヤ語にした名前です。主は救いという意味で、イスラエルではよくある名前でした。
「キリスト」は称号で、ヘブル語でメシア(油を注がれた者)と呼ばれる救い主を意味していました。
神の子、救い主イエス様、そのお方についてのすばらしい知らせをこれからお話ししますよ、というのです。
■バプテスマのヨハネ
2預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。3荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、4バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。
まず、バプテスマのヨハネがイエス様の道備えとして登場します。王様がやってこられる、その前に王様の通られる道をまっすぐに整えます。救い主が来られることを前触れする役目をヨハネは与えられました。
ヨハネは、旧約聖書の最後の預言者マラキ以来、400年ぶりに現れた預言者でした。預言者の姿はすでに伝説となっていたでしょう。ヨハネは、6節にあるように「らくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べて」いました。
マラキまでの旧約の預言者は、救い主がやがてこの世界に来てくださることを待ち望み、そのことを預言してきました。悲しみと苦しみに満ちたこの世界に神様が直接介入してくださる。私たちのために救い主が来てくださる。最後の預言者として立てられたバプテスマのヨハネが、その約束された救い主がまもなくおいでになると告げたのでした。
ここに引用されていることばは、マラキ書3:1と、さらにそれより300年前の紀元前700年ごろに書かれた、旧約聖書のイザヤ書40:3にある預言のことばを合わせて引いたものです。それをイザヤで代表させて「預言者イザヤの書に」と記しています。
マラキ3:1「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。」
イザヤ40:3「荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。」
バプテスマのヨハネの出現は、これらマラキ、イザヤの預言の成就でした。ヨハネは、ヨルダン川のほとりで、罪が赦されるための悔い改めを語りました。自分の罪を告白して神様に赦していただきなさい。そして、救い主がおいでになるのを待ちなさい、と語りました。
5そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。
「ユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民」。マタイやルカの福音書によれば、そこには一般の民衆と共にパリサイ人やサドカイ人といった宗教指導者たち、また取税人たち、兵士たちもいました。イスラエルの人々は長い間救い主を待ち望んでいたので、もしかするとこのヨハネという人がキリストではないかと思い始めました。しかし、ヨハネははっきりと答えて、自分はキリストではないと言いました。
7彼は宣べ伝えて言った。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。8私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」
かがんで靴のひもを解くというのは、たとい弟子であってもここまではしなくてもよいと言われていた、いやしい仕事でした。ヨハネは、自分はその方に対してそのような仕事さえもする値打ちがありませんと語り、これから来られるお方が「私よりもさらに力のある方」であり、「その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります」と語りました。
■イエス様の洗礼
9そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。
イエス様がご自分の育ったガリラヤのナザレという村から、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川にやって来られました。ヨハネの福音書1:28に「この事があったのは、ヨルダンの向こう岸のベタニヤであって、ヨハネはそこでバプテスマを授けていた」とあります。
生まれつき罪のない、聖い神の御子が、どうして「罪の赦しのための悔い改めのバプテスマ」を受ける必要があるのでしょうか。マタイの福音書を読むと、ヨハネはイエス様に洗礼を授けるなどとんでもないことで、むしろ「私こそ、あなたから洗礼を受ける者です」と言いました。それでもイエス様は、ヨハネから洗礼を受けることを願われました。
マタイの福音書3:13−15「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。」
それは、イエス様がすべての点で私たちと同じようになるためでした。罪のないイエス様が、私たちのために罪ある者のようになられました。私たちと同じ罪人(つみびと)のひとりとなってくださったのです。イエス様が十字架におかかりになる前、最後の晩餐の時にイエス様はこうおっしゃいました。
ルカの福音書22:37「あなたがたに言いますが、『彼は罪人たちの中に数えられた』と書いてあるこのことが、わたしに必ず実現するのです。わたしにかかわることは実現します。」」
これはイエス様が罪人として十字架にかけられるという神様のご計画の実現でした。
神様は、神様に背いてしまう罪人の私たちを赦し、救ってくださるために、ひとり子のイエス様をこの世に遣わしてくださいました。罪のないイエス様に私たちの罪を代わりに負わせ、罪の代価を清算するためでした。イエス様はそのことのためにご自分が神様から遣わされたことを公に示し、ご自分が「世の罪を取り除く神の小羊」であることを知らせるために、ヨハネからバプテスマを受けられたのでした。
10そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。
イエス様が洗礼を受けて水から上がられた時、天が裂けて聖霊が下った様子が、ヨハネの福音書ではこう語られています。
ヨハネの福音書1:32−33「またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『御霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』」」
11そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」
天から父なる神様の声がありました。これはルカの福音書では、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受け、イエス様が祈っておられる時に起こったとあります(3:21-22)。イエス様が「神の愛する子」であるということ、そして、神様は「イエス様を喜ぶ」とおっしゃいました。イエス様がこれから歩もうとしておられる生涯を、神様は祝福し、喜んでおられます。
イエス様は、私たちを罪から救うため受難の道を歩まれました。イエス様は私たち人間の罪を負って十字架で死んでくださいました。そのことを信じる人はだれでも無条件で救われるのです。
そのイエス様のご生涯を神様はご存じで、「あなたを喜ぶ。それはわたしの思いのとおりである」とおっしゃったのです。神の子として、同時に人としてこれから歩み出そうとするイエス様に対する、神様の承認のことば、派遣のことばでした。
■洗礼
今日、ひとりの兄弟の洗礼式の恵みに立ち会うことができたことを感謝いたします。イエス様はおっしゃいました。
ルカの福音書15:7「ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」
神様は私たちのために最もすばらしいことをしてくださいました。神の御子イエス・キリストをこの世にお遣わしくださったことです。イエス様は、罪人のひとりとなって、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられました。イエス様は、これからさまざまな困難に出会い、苦難を味わうことになります。それは、私たちの弱さ、私たちの悲しみを知ってくださるためでした。そして、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられてから3年後、イエス様は十字架で私たちのために死んでくださいます。
私たちが受ける洗礼は、私たちがイエス・キリストと結び合わされたこと、接ぎ木されたことを表します。キリストのいのちが、今や私たちのいのちになったことを示しています。
神様は私たちの罪をイエス様の十字架によって赦し、きよめ、私たちを救いの中に入れてくださいました。そして、そのことのゆえに、私たちは神様のものとなりました。洗礼は、イエス様を自分の救い主として信じ、その信仰を公に告白するものです。そしてこれからはイエス様と共に、神様に従って歩んでいくことを神様と約束したしるしです。
先に洗礼を受けた者たちも、再び洗礼の恵みを思いめぐらし、決意を新たにしたいと思うのです。
洗礼を受けられた方は、神様が与えてくださる無限の恵みに浴し、これからの信仰の歩みを全うできるように聖霊なる神様が導いてくださいます。私たちは弱く、愚かな者ですが、イエス様によって救われた喜びと感謝をもって、日々、神様の導きに従い、ひとりひとりが置かれている生活の場で、祈りつつ歩んでいきたいと思います。
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