ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2008年10月19日


2008年10月19日 主日礼拝説教
「イエス様がお呼びになった」(マルコの福音書1章14節〜20節)

■伝道の開始
 イエス様は荒野で悪魔から誘惑を受け、試みに勝たれた後、生まれ故郷のガリラヤに行き、伝道を始められました。

14ヨハネが捕らえられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。15「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

 バプテスマのヨハネは、ガリラヤの領主であったヘロデに捕らえられてしまいました。ヘロデは、自分の弟の妻を離婚させ、自分の妻にしていました。それをヨハネにとがめられ、怒ったヘロデはヨハネを捕らえて牢に入れてしまったのです。
 このことがあった後、イエス様はガリラヤに行き、福音を宣べて、こう語られました。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」と。
 「時が満ちた。」今まで待っていた、その時がやってきた。それはちょうど、出産を待っていた家族に、いよいよ出産の時が訪れる。そのような待ち焦がれる日々を過ごし、その待つ期間が終わり、ついにその時を迎えたのです。ユダヤの人たちは長い間神様の救いを待ち続けていました。人々が悲しみと悩みの中に置かれ、暗闇の支配する時代でした。
 救いの時がやってくることは、旧約時代、多くの預言者が語ってきました。神様の救いは必ず来る。もうすぐ来る、望みを失わないで待っていよう、と。そう言った預言者たちも、その救いの日をはるかに望み見るだけで、その目で見ることはできませんでした。しかし、今こそ、神様の救いがこの歴史の中に、現実となった。その時が来た。そうイエス様はおっしゃったのです。
 「神の国は近くなった。」神様は遠い存在ではなく、私たちの近く、かたわらにあられ、私たちを、そして世界を救おうとしておられる。私たちのただ中に来てくださり、救いとなってくださる。そのことが始まったのです。
 「悔い改めて福音を信じなさい。」悔い改めるとは、「神のもとに立ち返る」「今までの歩みから、神様のほうへ向きを変える」という意味が含まれています。家を出ていた人が自分の家に帰ろうとして、向きを変える。安心して帰れる家があるということです。私たちが、私たちを愛し、いつも心にかけてくださる神様がおられることに気づき、私たちの本当の父である神様のもとに帰るようにと、イエス様は招いてくださいました。

■最初の弟子たち、ペテロとアンデレ
 イエス様はまずガリラヤで、漁をしていた者たちに、ご自分のほうから声をかけられます。

16ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。

 イエス様がガリラヤ湖のほとりを歩いておられると、漁師たちがそこここで仕事をしている。そこで湖に網を打っていた二人の漁師をイエス様が「ご覧に」なりました。
 ガリラヤ湖は魚のたくさんとれる漁業が盛んなところでした。ですから、そこにはシモン、アンデレたちだけではなく、多くの漁師がいました。その中で、シモン(別名ペテロ)とその兄弟アンデレがいて、網を打っていたのをイエス様はご覧になったのです。
 イエス様とペテロたちはここで初めて出会ったのではありません。ペテロとアンデレは最初、バプテスマのヨハネの弟子でした。ふたりは、ヨハネから聞いてイエス様について来たのです。

ヨハネの福音書1:40−42「ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った」と言った。彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」」

 この出来事があって後に、またペテロたちはガリラヤ湖に戻り、いつものように漁師をしていました。彼らは、イエス様のことを知ったことは知ったのですが、まだ何もかも捨ててイエス様に従って行くまでには至っていませんでした。
 イエス様はガリラヤへ行かれ、再び彼らを「ご覧に」なりました。二人を見られたのです。「見る」ということばは、聖書のギリシヤ語には二つあって、ここは、「じっと見る、鋭く見る、注視する」という意味が込められていることばです。主がじっとふたりを見てくださいました。神様が人を召し出そうとするとき、まずその人をよく見てくださることがわかります。その神様の深いまなざしを、ペテロたちも受けました。

17イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」

 主イエス様がペテロたちにおっしゃいました。あなたがたは、今まで魚をとる漁師だったが、これからは人間をとる漁師にしてあげよう、と言われたのです。
 これは、イエス様の一方的な招きでした。すでにそう決めてあるからという招きです。ユダヤでは、弟子が先生を選んで弟子入りを願いました。それがここでは、先生であるイエス様のほうから声をかけてくださったのです。あとで、イエス様は弟子たちを前にして、そのことをこうおっしゃいました。

ヨハネの福音書15:16「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」

 これは、私たちの招きのことを考えてもそのとおりだと言えます。私たちは何か自分なりの理由や目的があるように思えても、実は知らず知らず教会に導かれ(あるいはクリスチャンホームに生まれ)、いつのまにかイエス様のもとに引き寄せられていきます。イエス様を自分の救い主として受け入れることができるのも、自分の努力やがんばりによるものではなく、神様がイエス様を信じるように導いてくださるからです。
 「人間をとる漁師にしてあげよう」。ここは、原語では未来形が使われています。イエス様が未来の表現を使った場合は、それは確実なことなので、「あなたがたは人間をとる漁師に必ずなります」とおっしゃっているのです。あなたがたが人間をとる漁師になることは決まっています、というのです。それは、イエス様のほうでそのように決めて弟子たちを選び、呼び出して、召してくださったからです。

18すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。

 彼らは即座に従いました。

ヘブル人への手紙3:15「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」

 「彼らは網を捨て置」きました。網は彼らの生活手段でした。ですから彼らは、これからの自分たちの生活をイエス様におまかせして従ったのです。彼らは、イエス様に従って行くという決断と、イエス様に対する信頼を「網を捨てる」という行為で表しました。

■ヤコブとヨハネ

19また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。20すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。

 同じようにイエス様は、ヤコブとヨハネの兄弟を「ご覧に」なって、呼ばれました。彼らは「舟の中で網を繕って」いました。その夜の漁のために準備をしていたと思われます。そこに声をかけられたのです。
 イエス様が私たちを招いてくださると、私たちは自然にお従いできるのが不思議です。ヤコブとヨハネも、「これからあれをしよう」と準備をしていた途中でしたのに、すぐに立ち上がることができたのは、イエス様が選んでくださり、「ご覧になって」くださり、声をかけてくださったからでした。
 ヤコブとヨハネは「父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して」従いました。家に雇い人がいたのですから、ある程度裕福だったのでしょう。ヤコブとヨハネは、それらをみな残してイエス様について行きました。

■イエス様の召し
 今日の聖書の16節から20節の出来事に見られるものは、イエス様が弟子として選ばれた者たちをご覧になったという「まなざし」と、「わたしについて来なさい」というイエス様のおことばと、それに従った弟子たちの行動です。そして、それらのことの背後にあったのがイエス様のほうで彼らを選んでくださったということでした。
 この時からイエス様と弟子たちの歩み、伝道の旅が始まります。弟子たちは、イエス様と生活を共にし、さまざまな奇蹟に立ち会い、イエス様のおことばを聞きながら、少しずつ訓練されていきます。
 しかし、彼らは最後の最後まで、イエス様のなさろうとしていることを理解できませんでした。イエス様が十字架にかけられた時も、それが永遠の昔からの神様のご計画であったことがわかりませんでした。神様に対する人間の不従順と背きの罪がイエス様の身代わりの死によって赦されたのだ、ということを弟子たちが理解できたのは、イエス様が死んで葬られ、3日目に復活されたお姿を見せてくださってからのことでした。それまで弟子たちはイエス様のおことばの意味を悟ることができず、イエス様こそイスラエルの王様になる方だと期待して喜んだり、そうではないらしいと知ってがっかりしたり、特に多くの人々がイエス様に失望して去ってからは、イエス様のお心がわからず不安でいっぱいになっていました。それでも最後までイエス様についていくことができたのは、彼らがイエス様によって選ばれ、イエス様から声をかけられ、イエス様にお従いできるように導いていただいたからなのです。
 イエス様は、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と声をかけられました。そしてイエス様は、ペテロたちがイエス様に従っていながら何度もつまずき、倒れても、またいつまでも無知であり不信仰であっても、そのたびに呼び出し、赦し、助けを与えて、おことばどおりペテロたちを「人間をとる漁師」にしてくださったのです。
 私たちの信仰の歩みも同じです。私たちが自分の力でやろうとすると、どうしても疲れてしまったり、嫌になって投げ出してしまったりします。しかし、神様におまかせしていると、なぜか道が開け、何もかも良い方向へ進んでいくのです。そしていつも神様は私たちに声をかけてくださり、みことばを通して力づけてくださいます。神様が最初に私たちを選び、招き寄せ、神様に従う者になるように決めてくださったからです。神様のなさることは必ず成し遂げられます。それが神様のお約束です。

ピリピ人への手紙1:6「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」

 私たちを選んでくださった神様が、限りないいつくしみと忍耐をもって私たちを導き、みこころにかなうように私たちを成長させてくださることを信じて、感謝しつつお従いしていきたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2008年10月19日