ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2008年11月2日


2008年11月2日 主日礼拝説教
「わたしの心だ。きよくなれ」(マルコの福音書1章32節〜45節)

■はじめに
 先週は2つのいやしを見ました。イエス様は、安息日にカペナウムの会堂に行かれ、そこにいた汚れた霊につかれた人をいやしてくださいました。礼拝が終わり、ペテロの家に行かれ、ペテロのしゅうとめの熱病をいやしてくださいました。今日は、その日の夕方から始まります。

■夕べのいやしと朝の祈り

32夕方になった。日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた人をみな、イエスのもとに連れて来た。

 夕方になり、安息日が終わりました。朝を待たないで、イエス様を求める人たちがみもとに、権威ある新しい教えと、奇蹟を求めてやってきました。
 イエス様は、さまざまな病気にかかっている人たちをいやし、多くの悪霊を追い出されました。イエス様はこの日、朝から忙しい1日を過ごしました。そして次の朝と思われます。イエス様はまだ暗いうちに、祈っておられたのでした。

35さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。

 イエス様の祈りは、疲れを覚え、それをいやすため、父なる神様との交わりによって新たな力をいただくためでした。またイエス様の祈りは、ご自分の評判がますます高まっていく中で、神様のみこころを求めるためでした。イエス様に与えられた神様からの導き、神様のみこころは、カペナウムから「近くの別の村里へ行く」ということでした。

■ツァラアトに冒された人
 そのようにイエス様が、ガリラヤの各地を巡り歩いていた時に出会ったのが、ひとりのツァラアトに冒された人でした。

40さて、ツァラアトに冒された人がイエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。「お心一つで、私をきよくしていただけます。」

 「ツァラアトに冒された人」たちの生活は大変でした。病気自体も悲惨なものでしたが、彼らは健康な人たちの交わりに入ることが許されませんでした。旧約聖書に、ツァラアトについての教えがあります。ツァラアトに冒された人は汚れているということで、イスラエルの民たちから隔離され、町の外で生活させられていました。やむなく人中を歩くときは、「汚れている、汚れている」と叫びながら、自分の汚れがほかの人につかないようにしなければなりませんでした。
 このような人が、イエス様の前までやって来ました。このとき彼は、人々の目を恐れず、ただイエス様に会いたいという一心で、イエス様だけを求めて歩いて来たのです。ツァラアトの人は、イエス様を見ると「ひざまずいて」お願いしました。彼は、自分の悲惨な病気と孤独の中、イエス様に求める以外になかったのです。
 「お心一つで、私をきよくしていただけます。」なんと謙遜な願い方でしょうか。原文で、「もし、あなたがそれを望んでくだされば」です。そして「私をきよくしていただけます」と願ったのでした。
 彼はイエス様を信じていました。イエス様がこの病をいやしてくださると信じていました。それだけではありません。彼は、自分がきよくしていただけるかどうか、それはイエス様のお心一つという信仰を持っていました。イエス様の「お心」であれば、感謝。もしいやされなくても、それもまた主のお心。そのような信仰をもってイエス様に近づいたのでした。

41イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」42すると、すぐに、そのツァラアトが消えて、その人はきよくなった。

 イエス様は、口を開く前に、即座に、「手を伸ばして」、このツァラアトの人にさわられました。ツァラアトにさわる。当時の教えでは、ツァラアトに触れるどころか、見るだけで汚れると教えられていました。そのように言われていたツァラアトの人に、イエス様は手を伸ばしてさわられました。だれとも交わりを断たれていたツァラアトの人に、イエス様は、交わりの手を差し出してくださったのでした。

■わたしの心だ。きよくなれ
 群衆は遠巻きに立っていたことでしょう。でも、ただ一人、世界でたった一人、イエス様だけが手を伸ばし、その患部にさわってくださったのです。ツァラアトの人は「お心一つで」と願いましたが、イエス様はそれに答えて、「わたしの心だ。きよくなれ」(原文で「私はそのように望む、あなたはきよくなれ」)とおっしゃってくださいました。
 ツァラアトの人がきよめられることは、イエス様のみこころでした。罪に汚れており、神の前に出ることさえも禁止されていた者が、きよめられて、神様の前に出ることができるようになる。これがイエス様のお心でした。
 そして、イエス様のおことばどおり、直ちにツァラアトは消え、きよくなりました。イエス様は、いやされた人に命じました(44節)。「だれにも何も言わないようにしなさい」は、悪霊にものを言うことを許さなかった理由と同じです。イエス様は人々を罪から救うために、ご自分の身にその罪を背負い、十字架で死ぬためにこの地上に生まれてくださったのでした。そのイエス様の時が来ておらず、また人々の熱狂の中に巻き込まれないためでした。
 きよめられた「自分を祭司に見せなさい」は、ツァラアトがいやされたことが証明され、社会に受け入れられる必要があります。普通の人として受け入れられ、普通の生活が送れるようにとの温かい配慮でした。神様との関係が回復され、罪を赦された人が、社会に出て、普通の暮らしをすることがイエス様のもう一つのみこころでした。
 しかし、「だれにも話してはいけない」と命じられたことは、どうなったでしょうか。

45ところが、彼は出て行って、この出来事をふれ回り、言い広め始めた。そのためイエスは表立って町の中に入ることができず、町はずれの寂しい所におられた。しかし、人々は、あらゆる所からイエスのもとにやって来た。

 口止めをしても、イエス様のうわさは、ますます広がっていき、「あらゆる所から」人々がイエス様のもとにやってきたのでした。

■私たちのきよめ
 「お心一つで、私をきよくしていただけます。」「わたしの心だ。きよくなれ。」これはまた私たちの願いであり、イエス様の私たちへのことばです。私たちの罪や汚れに対するイエス様の心は無限です。イエス様に許せない罪はなく、忍耐できない汚れはありません。
 イエス様は、私たちの罪を赦すために、それは「わたしの心だ」とおっしゃってくださいます。私たちの罪が赦されることは、私たち以上にイエス様が望んでくださっているのです。そのために、イエス様は十字架で死んでくださいました。

エペソ人への手紙1:7「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」

 私たちは、きよい神様の目から見るならば、みな罪に汚れている者です。とうてい神様の前に出ることができない者です。また、この汚れた自分を、本当の姿を人目にさらすことのできない者です。イエス様は、この私たちの罪の汚れに触れてくださり、私たちの汚れを引き受けてくださいました。そして、このツァラアトの人の汚れも、私たちの罪と汚れも共に担って、ゴルゴタの丘で十字架にかかってくださったのです。
 今日、私たちがイエス様に、「お心一つで、私はきよくしていただけます」と願うならば、イエス様は「わたしの心だ。きよくなれ」とおっしゃって、私たちの罪を赦してくださいます。主イエス様のお心が、私たちをきよくしてくださることであり、そのためにイエス様が十字架にかかってくださったことを覚えて、共に聖餐の式に臨みたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2008年11月2日