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2008年11月16日 主日礼拝説教
「罪人を招くために来られたイエス様」(マルコの福音書2章13節〜17節)
■はじめに
先週は、マルコの福音書2章1〜12節を読みました。屋根をはがしてまでも、イエス様のもとに来た中風の人の信仰。イエス様は、その人を連れてきた人たちの信仰をご覧になり、中風の人に「あなたの罪は赦されました」とおっしゃってくださいました。イエス様は、私たちのすべてを、私たちの罪も弱さもすべて知っていてくださいます。そのお方が、「あなたの罪は赦されました」と言ってくださっている。そのことをごいっしょに覚えることができました。今日はその続きになります。
■取税人マタイ
13イエスはまた湖のほとりに出て行かれた。すると群衆がみな、みもとにやって来たので、彼らに教えられた。14イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって、「わたしについて来なさい」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。
ここに「アルパヨの子レビ」という人が出てきます。レビは後にマタイと呼ばれるようになり、マタイの福音書を書いた人です。
マタイが座っていた「収税所」とはどういうところでしょうか。交通の要衝には、このような収税所が設けられていました。聖書に出てくる有名なものは、エリコの町にあった収税所でした。そこで働いていた取税人のかしらがザアカイという人でした(ルカ19章)。
ここカペナウムでマタイは、収税所でガリラヤ地方に運び込まれる品々に税金をかけて、物品税、通行税を徴収する仕事をしていました。この時代、ユダヤの国は、ローマ帝国に支配されていました。そのローマに代わって税金の取り立てていたのが、取税人と言われていた人でした。
ローマに納める税金の額は決まっていたので、その額を納めさえすれば、実際に取税人が人々からいくら徴収しようがローマは関知しないところでした。ですから、取税人は決められた税以上を取り立てるのが当たり前。彼らは私腹を肥やし、金持ちとなり、ユダヤ人から嫌われて、裏切り者、罪人とされていたのでした。
■イエス様が声をかける
そのような取税人の一人であったマタイが「収税所にすわって」仕事をしていました。そんなマタイの前に現れたのがイエス・キリストでした。この時、イエス様のほうから、収税所におもむいてくださり、マタイを「ご覧になって」声をかけてくださったのでした。1章16節以降にありましたペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人の漁師が呼ばれた時と同じです。
イエス様は、マタイを見つめて「わたしについて来なさい」と言われました。これもペテロたちと同じです。イエス様が弟子たちを召される時、イエス様が選び、目をとめ、「わたしについてきなさい」と声をかけるのです。
マタイはイエス様をどう見ていたでしょう。マタイは、カペナウムの収税所で仕事をしていました。収税所には、仕事柄いろいろな人が出入りします。町で起こった出来事は何でも入ってきます。カペナウムの会堂で悪霊につかれていた人から悪霊を追い出したこと。また最近は、イエス様がお話ししていた家の屋根がはがされ、病人がつり降ろされてきた。その人をイエス様は立ち上がらせてくださったこと。そのほか病を癒し、貧しい者の友となってくださっているイエス様のことでした。
マタイは、人々からさげすまれ、のけ者にされていました。マタイは収税所に座りながら、自分はこのままでいいのかと何度となく自問していたのではないでしょうか。そのようなマタイをイエス様のほうから呼んでくださいました。マタイは、イエス様から「わたしについて来なさい」と言われた時、自分がほしかったもの、自分がどうしたかったかがわかりました。
■マタイが立ち上がり、イエス様に従う
14……すると彼は立ち上がって従った。
マタイは、このイエス様のひとことで「立ち上がって従」いました。ルカの福音書によると、「何もかも捨て、立ち上がって従った」とあります。もと取税人が他の職業に就くことは大変なことでした。そういう情況の中で、マタイはすべてを捨てて立ち上がったのでした。
「立ち上がる」ということばは、ギリシヤ語では、何かをするために決意をもって立ち上がるという意味のことばです。また、このことばは「生き返る」「よみがえる」という意味で使われています。イエス様に呼ばれて立ち上がるということに、これほどの深い意味が込められているのです。
信仰とは、主の招きのことばを聞いて立ち上がることです。罪の中に座り込み、この世の流れに流されていたら、その行き着く先は滅び以外にありません。主は、私たちを立ち上がらせ、喜んで従っていく新しい生活に導いてくださるのです。
マタイは、イエス様に従いました。「従う」ということばは、同じ道を歩むという意味です。イエス様に呼ばれて「立ち上がった」人は、そのままイエス様の道をいっしょに歩いて行くのです。
私たちの現実の歩みがそうであるように、その道は決して平坦な道ばかりではありません。しかし、いつも主が共にいてくださり、力づけてくださり、励ましてくださって、歩んでいくことができるのです。
■罪人を招くために
15それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。
イエス様にお会いし、声をかけていただいたマタイの喜びと感謝の心を示す宴会です。マタイは、そこに自分の同僚であった取税人仲間たちや、世間からつまはじきになっていた「罪人たち」も招きました。この宴会は、マタイが取税人仲間に別れを告げる宴会であり、自分の身に起こったすばらしい出来事を友人たちに伝えるためのものでした。
しかし、この宴会の様子を見て、つまずいた人たちがいました。「パリサイ派の律法学者たち」です。彼らは、罪人とは食事を共にしないことを誇っていました。彼らは、イエス様の弟子たちに向かって言いました
16……「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」
それに対して、イエス様は答えられました。
17……「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
医者を必要とするのは病人です。丈夫な人は医者を必要としません。イエス様は、ご自分を医者であると言っておられるのです。イエス様は、救いを必要とする罪人のために、その人をいやし救うためにこの世に来てくださいました。
救い主を必要としない人は一人もいないのですが、自分は正しいと思っている限り、救いの必要を感じられないのです。律法学者たちは、自分たちが救いを必要としている罪人であることを自覚していませんでした。
私たちは、みなイエス・キリストというまことの医者を必要としています。私たちは、みなイエス・キリストというまことの救い主を必要としています。主イエス・キリストは、取税人であったマタイだけではなく、すべての人の友となってくださるお方です。イエス様はそのことのために来られたのでした。
■十字架
イエス様はまことの医者、まことの救い主となるために、罪をゆるし滅びから救ってくださるために、私たちの罪を負って十字架にかかってくださいました。そのことを信じる人は、だれでも救われるのです。それが聖書の教え、イエス様の教えです。
イエス様は、すべての人を招いておられます。
マルコの福音書10:14−15「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」
17節のおことばをもう一度読んで終わりにします。
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
イエス様はどんな心の傷も罪もいやしてくださいます。そしてイエス様は、どんな罪人も赦してくださいます。そのことを信じて、イエス様に従う者とされた私たちの喜びと感謝を、今日も主にささげたいと思います。
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