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2008年11月23日 主日礼拝説教
「新しい福音の喜び」(マルコの福音書2章18節〜22節)
■はじめに
前回は、後にマタイと名乗るようになる取税人レビが、イエス様の弟子として召され、その後、感謝の宴会を開いた個所を読みました。その宴会の場にいたパリサイ人たちが、イエス様のなさっていることに対して非難の声を浴びせました。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか」と。それに対してイエス様は「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」と答えられて、自分は、そのような救いを必要としている取税人や罪人を救うために来たことを語りました。
今日は、そこにバプテスマのヨハネの弟子とパリサイ人がやってきたところから始まります。
■イエス様への質問
18ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは断食をしていた。そして、イエスのもとに来て言った。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか。」
宴会の日がちょうど断食の日だったと思われます。彼らは、その日に断食をしていたのでした。彼らはイエス様に尋ねました。どうして「あなたの弟子たちは断食をしないのですか」と。
ユダヤの教えでは、断食は罪を悲しみ、罪を悔いるしるしとして、また神様への熱心さを示すしるしとして広く行われていました。イエス様がいた時代には、熱心なパリサイ人は週2回、断食することになっていました。
そのような大切な断食であるのに、どうしてイエス様は弟子たちに断食をさせないのか疑問に思ったのでした。
■イエス様の答え、結婚式のたとえ
イエス様は、その問いかけに対して、どうして断食をしないかを結婚式のたとえをもって答えられました。
19イエスは彼らに言われた。「花婿が自分たちといっしょにいる間、花婿につき添う友だちが断食できるでしょうか。花婿といっしょにいる時は、断食できないのです。20しかし、花婿が彼らから取り去られる時が来ます。その日には断食します。
ここで「花婿」とは主イエス様で、「花婿につき添う友だち」とはイエス様の弟子たちのことです。
当時のイスラエルは、新郎の家に友人たちが招かれて結婚式が行われました。招かれた友人たちは、ご馳走を食べ、新郎新婦と喜びを共にします。それが1週間も続くこともあったそうです。このような結婚式の最中に、断食の日が来たからと言って、「花婿につき添う友だち」が断食をするでしょうか。そんなことはしません。
イエス様の弟子たちも、同じように今は断食をしないと言います。それは、イエス様といっしょにいる今の生活が、婚礼の席にたとえられるような喜びの場であるからです。イエス様といっしょにいる間は、イエス様ご自身がこの上ない喜びの源なので断食はしません。
しかし、この喜びはいつまでも続きません。花婿であるイエス様が取り去られる時が来るからです。それは、主イエス様が十字架にかかられる時です。その時にはじめて、弟子たちは悲しんで断食をするのです。
イエス様が共にいてくださる歩み。それは、悲しみが取り除かれ、喜びに満ちあふれる歩みです。大切なことは、イエス様が共にいる時に断食を忘れ、喜んで感謝して歩むことです。ヨハネの弟子たちやパリサイ人たちは、断食によって神様への信仰と感謝を表そうとしました。しかし、イエス様はそのような形式にとらわれることなく、イエス様との交わりの中でわき出てくる自由な思いで感謝と喜びを示しなさいと説いたのでした。
イエス様との交わりから出てくるものは、すべて自由なものであり、自発的なものです。だれからも強制される必要はありません。キリスト者にとって、喜びも悲しみも強制や形式ではなく、自発的な全く新しい生き方なのです。
■古い着物に新しい布切れ
その新しい生き方は、今までの古い生き方とは違った生き方です。イエス様は、そのことを2つのたとえをもって語られました。最初は新しい着物と古い着物のたとえです。
21だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、新しい継ぎ切れは古い着物を引き裂き、破れはもっとひどくなります。
古い着物の継ぎをするのに新しい布きれは使いません。古い布きれは新しい布きれに負けてしまいます。新しい丈夫な布きれで古い着物に継ぎをしようものなら、新しい布によって古い着物の破れはさらに広がってしまいます。繕ったつもりが、かえって悪くなってしまうのです。
イエス様の弟子たちに断食を要求することは、古い着物に新しい布きれで継ぎをするようなものです。主イエス様と共に歩むという新しい生き方を知った弟子たちに形式的なものを要求することは、古い着物に新しい布きれで継ぎをする継ぎ当てのように、不釣り合いで愚かなことなのです。
イエス様がもたらしてくださったものは、今までのユダヤの教えには収まらない新しい生き方でした。ああしなければいけない、こうしてはならない、こうでなければならないと、数え切れないほどの決まりを作った教えが、今までの古い教え、古い生き方でした。私たちがイエス様から与えられたものは、全く新しい自由な信仰生活です。そのような、何ものにもとらわれない信仰生活を歩むようにと教えられます。
■新しいぶどう酒は新しい皮袋に
新しい生き方は古い生き方と相容れないことを教える2つ目のたとえとして、新しいぶどう酒と古い皮袋のたとえが語られます。
22また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。」
当時、ぶどう酒や水を蓄えておくために用いられた皮袋は、羊や山羊の皮で作ったものです。その皮袋は、長く使っていると弾力性を失い固くなっていきます。そういう古い皮袋に作ったばかりの新しいぶどう酒を入れると、ぶどう酒の発酵する圧力によって、弾力性を失った古い皮袋は裂けてしまうというのです。そうなったら、せっかく作った新しいぶどう酒も、古い皮袋も、両方ともダメになってしまいます。
主イエス様が教えられた新しい教え、イエス様が示された新しい生き方は、今までパリサイ人たちが守ってきたものとは全く違うものです。そればかりか、古い皮袋を突き破ってしまうほど力強く、いのちに満ちて喜ばしいものなのです。
イエス様に救われて新しくされた信仰は、はち切れるようないのちと内側からわき出てくる力にあふれています。そして、そのような信仰生活には、新しい皮袋のように弾力性のある新しい生き方がふさわしいのです。
■十字架による新しい福音
イエス様から新しいいのちをいただいて新しく生きるということは、どこから出てくるのでしょうか。それは、イエス様が「花婿が彼らから取り去られる時」、イエス様が十字架にかかられるに時に明らかになりました。
イエス様は十字架で死なれ、3日目によみがえられました。イエス様が十字架で私たちの罪の代わりに死んで、よみがえられたので、それを信じるすべての人に、罪の赦しと新しいいのちが与えられました。
主イエス様はご自身を十字架につけて、私たちを罪から救ってくださいました。そのことを信じ、受け入れることが私たちに与えられた信仰であり、新しい生き方です。
神様が与えてくださった信仰とは、古い生き方の仕立て直しや継ぎはぎでなく、また古い皮袋をいつまでも使うというようなものではなく、全く新しい生き方です。
信仰に生きるということは、新しい変化をもたらします。イエス様からいただいた新しいいのちは、新しい生き方の中で熟成していきます。新しいぶどう酒は新しい皮袋の中で発酵し、良い香りを放って、私たちに尽きることのない喜びを与えてくれるのです。
聖書はこのように、私たちに教えています。
ピリピ人への手紙4:4「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」
私たちは、イエス様を信じることによって、罪ゆるされた者として、喜びをもって信仰生活を送っている。それが新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れる信仰生活です。そのような歩みを、今週も共に歩みたいと思います。
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