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2008年11月30日 主日礼拝説教
「安息日に病を直すキリスト」(マルコの福音書2章23節〜3章6節)
■安息日に麦を食べる
23ある安息日のこと、イエスは麦畑の中を通って行かれた。すると、弟子たちが道々穂を摘み始めた。24すると、パリサイ人たちがイエスに言った。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日なのに、してはならないことをするのですか。」
イエス様と弟子たちは、ある安息日(土曜日)に麦畑の中を通っておられました。麦が穂を出し、色づき、刈り入れも間近のころ、これは、ガリラヤ地方5月ごろのことです。
弟子たちが麦の穂をつんで食べ始めました。それをパリサイ人たちが見て、とがめました。マタイの福音書12章によると、このとき弟子たちは「おなかがすいていた」のでした。
黙って、人の畑に入り、麦の穂をつんで食べたことがいけなかったのではありません。「麦の穂を摘む」ことは、ユダヤ社会では許されていたことでした。他人の畑でも、通りがかりに、鎌を使わなければ手を使って麦の穂をつむことは許されていました。これは、ユダヤ社会で、貧しい人や飢えた人を助けるための律法でした。ですから、おなかがすいていた弟子たちが麦の穂をつんで食べたのは、決して悪いことではありませんでした。問題は、それが安息日であったことでした。
■安息日
安息日を守ることは、モーセの十戒に規定されていて、ユダヤ社会では特に重んじなければならないことでした。
出エジプト記20:8−10「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。」
この教えを、実際どのように守っていくのかということで、たくさんの決まりが作られていました。そのうち「安息日にしてはならない仕事」のリストは千以上あったといいます。そこに、麦を収穫すること、麦を脱穀することがありました。弟子たちが麦の穂をつんだのは収穫したことであり、手でもんだことは脱穀をに当たりました。
■安息日の主
それに対して、イエス様は答えられました。
25イエスは彼らに言われた。「ダビデとその連れの者たちが、食物がなくてひもじかったとき、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。26アビヤタルが大祭司のころ、ダビデは神の家に入って、祭司以外の者が食べてはならない供えのパンを、自分も食べ、またともにいた者たちにも与えたではありませんか。」
イエス様は、パリサイ人たちに対して、旧約聖書の出来事を引いて答えられました。これは、Tサムエル記21:1−6に記されている出来事です。ダビデがサウル王の怒りを避けて逃げ出した時、ダビデは祭司の所に立ち寄ります。そこで、おなかがすいていたダビデと家来たちが、神殿にささげられていたパンを祭司からもらって食べたのでした。このパンは、祭司だけが食べることを許されていたものでした。
イエス様は、ダビデの例を出して、律法は変えられることもあることを示して大切な27、28節を言いました。
27また言われた。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。28人の子は安息日にも主です。」
「人の子」とは、イエス様がご自分を指すとき使われたことばです。神の子、救い主であることを表すことばとして使われました。
イエス様は、安息日にどうするかを決める権利を持っている、とおっしゃったのでした。これも、ご自分が神であることを宣言したことばです。
パリサイ人たちが守ろうとしていた安息日は、禁止条項ばかりで、それがいつの間にか人を縛っていました。安息日は、人間のために設けられ、自分たちを創造し、自分たちを愛し、守ってくださった神様に感謝し、礼拝する日でした。
律法を守ることに縛られていたパリサイ人に対して、イエス様は、本来律法は人の生活を守り、豊かにするものであるということを教えられました。
■会堂での出来事
さて、3章1節からは、「別の安息日に」あった出来事が書かれています。これもイエス様が、安息日の主であることを示す大切な出来事でした。
1イエスはまた会堂に入られた。そこに片手のなえた人がいた。2彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。
イエス様は、安息日に会堂に入って教えておられました。そこに「片手のなえた人がいた」のでした(ルカ6章は「右手」)。その会堂に「彼ら」(パリサイ人たち)がいて、イエス様が安息日にこの人を直すかどうかじっと見ていました。パリサイ人たちは、この機会に、イエス様を「訴えるための」口実を見つけようとしていました。
安息日には、医療行為も許されませんでした。パリサイ人たちの関心は、安息日の規定にイエス様が違反するかどうかという点だけでした。パリサイ人たちは、手の不自由な人の悩みや苦しみには全く無関心でした。それに対してイエス様は、愛をもって行動なさいました。
3イエスは手のなえたその人に「立って真ん中に出なさい」と言われた。
イエス様は、安息日に、この人をいやせば訴えられるということもご存じでした。同時にイエス様は、この「手のなえた人」の願いを知っておられました。そこでイエス様は、パリサイ人たちに、こうおっしゃいました。
4それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか」と言われた。彼らは黙っていた。
彼らは、その問いに対して答えることができませんでした。
5イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。
「手を伸ばしなさい」は、信仰の決断をうながすことばでした。この人に、手が伸びることを信じるかと問いかけられたのでした。この人が、イエス様のことばを信じて「そのとおりにすると」、その時主のみわざがこの人に現れたのでした。イエス様の言われたとおり、手を伸ばすことができると信じて、手を伸ばした時、彼の右手がいやされたのでした。
信仰とは、手が伸びることのメカニズムを全部理解してから、手を伸ばすのではありません。みことばに従ってまず手を伸ばしてみること、これが信仰です。すると、「彼の手は元どおりになった」のでした。
6そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどのようにして葬り去ろうかと相談を始めた。
「片手のなえた人」が回復された時、その場にいた人々は、大きな驚きと、深い感動に包まれたことでしょう。しかし、この時から、イエス様を殺そうとする計画が動き始めたのでした。
■主の日の礼拝
ユダヤ教の安息日は週の7日目、土曜日でした。キリスト教会は週の初めの日、日曜日を主の日として礼拝を守るようになりました。
「週の初めの日」は、イエス様が死んでから3日目に復活された記念の日です。その日、イエス様はよみがえられた者の初穂となり、私たちを罪による死から解放してくださいました。毎週、私たちは復活の主を覚え、イエス様を礼拝するために教会に集まっています。主を礼拝すること、復活の主を礼拝することが、「人の子は、安息日の主です」と言われた、イエス様のみこころです。
イエス様への信仰が与えられると、新しいいのちが与えられ、私たちは本当に自由にされていきます。
ガラテヤ人への手紙5:1「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」
主の日に礼拝を守ることもそうです。イエス様のいのちによって生かされると、自由に、喜びをもって礼拝を守るようになっていくのです。
「片手のなえた人」もそうでした。イエス様は、この片手のなえた人を、人々の真ん中に立たせていやし、信仰によって新しい人生へと生まれ変わらせてくださいました。
イエス様は、十字架への道を進んで行かれました。それは、私たちを愛し、私たちを律法の束縛から解放して、新しいいのちに生かしてくださるためでした。イエス様の死によって、私たちは罪を赦され、新しいいのちの喜びに生かされる者となったのです。
今日も、イエス様は私たちに、「立って、真ん中に出なさい。そして、信仰をもって手を伸ばしなさい」と呼びかけておられます。それは、自らを十字架にかけてまで、私たちを愛してくださった主の深い恵みに満ちた呼び掛けであり、招きです。その声に素直に聞き従い、私たちは、信仰をもって起き上がり、なえた手を伸ばしたいと思います。
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