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2008年12月7日 主日礼拝説教
「主が選ばれた使徒たち」(マルコの福音書3章7節〜19節)
■はじめに
イエス様のもとには、病気の人、悪霊につかれた人、悲しみの中にある人、この世から見捨てられた人たちなどがたくさんやって来ました。みなイエス様の新しい教えを聞き、新しい生き方を求め、そして病をいやしていただくためにやってきました。
しかしパリサイ人たちは、ヘロデ党の者たちといっしょになり、イエス様をどうして葬り去ろうかと相談を始めました。イエス様が中風の人に罪の赦しを宣言したこと、取税人や罪人といっしょに食事をしたこと、安息日に片手のなえた人をいやされたことなどが原因になっていました。
■イエス様のもとにやってきた人々
そのような不穏な動きがある一方で、イエス様の評判はますます高まりました。ガリラヤからついて来た人たちのほか、イスラエルのあらゆるところから、また外国からも大勢の人々がイエス様のもとにやってきました。
7それから、イエスは弟子たちとともに湖のほうに退かれた。すると、ガリラヤから出て来た大ぜいの人々がついて行った。また、ユダヤから、8エルサレムから、イドマヤから、ヨルダンの川向こうやツロ、シドンあたりから、大ぜいの人々が、イエスの行っておられることを聞いて、みもとにやって来た。
イエス様は小舟に乗って湖に乗り出し、そこからお話をされました。
9イエスは、大ぜいの人なので、押し寄せて来ないよう、ご自分のために小舟を用意しておくように弟子たちに言いつけられた。10それは、多くの人をいやされたので、病気に悩む人たちがみな、イエスにさわろうとして、みもとに押しかけて来たからである。11また、汚れた霊どもが、イエスを見ると、みもとにひれ伏し、「あなたこそ神の子です」と叫ぶのであった。12イエスは、ご自身のことを知らせないようにと、きびしく彼らを戒められた。
イエス様の宣教の働きは始まったばかりでした。人々は、イエス様こそ待ち望んでいたイスラエルの救い主、やがてはローマの支配から解放するために立ち上がってくれるに違いないと思っていました。そのような間違った期待が広まっていくことを恐れたイエス様は、厳しく「汚れた霊」にご自身のことを知らせることを戒められたのでした。
宣教が始まったばかりなのに、すでに重大な局面を迎えていたのでした。
■12使徒を選ぶ
そこでイエス様は、たくさん集まってきていた人たちの中から、十二人の特別の弟子、使徒と呼ばれる人たちを選ばれました。
13さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。14そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、15悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。
彼らの選ばれた目的は「イエス様のそばにいる」ことです。イエス様のそばにいてイエス様のおっしゃることや、なさることをよく見ることです。それから、「福音を宣べる」こと、そして「悪霊を追い出す」ことです。このためにイエス様は、次のような人々をお選びになりました。
16こうして、イエスは十二弟子を任命された。そして、シモンにはペテロという名をつけ、17ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、このふたりにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。18次に、アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党員シモン、19イスカリオテ・ユダ。このユダが、イエスを裏切ったのである。)
十二使徒の名前は、ほかにマタイの福音書10章、ルカの福音書6章、使徒の働き1章に出て来ます。名前の順序は入れ代わっていますが、1名をのぞいて同じ名前です。ここに10番目の「タダイ」と出ている人が、ルカの福音書と使徒の働きでは、「ヤコブの子ユダ」となっています。また「バルトロマイ」は、ヨハネの福音書では「ナタナエル」という名で出てきます。
■12人の使徒たち
シモン・ペテロ。ペテロは「岩」という意味です。イエス様が付けられた呼び名です。彼は使徒たちの中心人物となりました。
ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ。この2人には「雷の子」という名前が付けられました。怒りっぽい性格であったのか、または宣教の熱心さを表しているとも考えられます。この3人が使徒の3羽烏と言われます。
アンデレ。ペテロをイエス様に紹介したことで知られるペテロの兄弟です。先の3人と同じく漁師出身です。
ピリポとバルトロマイ。この二人はいつもいっしょに出てきます。ヨハネの福音書1章で、ピリポがナタナエルにイエス様を紹介しています。
マタイ。元取税人で、本名はレビと言います。
トマス。復活のとき、イエス様が現れたことを信じなかったので、疑り深いトマスと言われています。むしろ純粋な率直さを持った弟子であったと考えられるでしょう。
アルパヨの子ヤコブとタダイ(ヤコブの子ユダ)。この2人については、詳しくは書かれてありません。
熱心党員シモン。ローマからユダヤの独立を目指そうとしていたグループの一人でした。
イスカリオテ・ユダ。カリオテ出身の人という意味と思われます。
■選ばれた理由
このようないろいろな人たちが集められ、イエス様の弟子となりました。この人たちは特別な社会的地位もなく、特別の教育を受けているわけでもありませんでした。しかも、いろいろな個性の持ち主たちで、時に張り合い、時に人を出し抜こうとしたりもしました。
イエス様は、大勢つき従ってきた人の中から、この12人をどのようなお考えでお選びになったのでしょうか。
「さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。」
「お望みになる」のギリシャ語は、「決心する、願う、望む、喜びとする、したいと思う」などと訳されることばです。ですから、「イエス様ご自身が、そうしようと思う者たちを呼び寄せられた」ということになるでしょうか(新共同訳聖書は「これと思う人々を呼び寄せられた」とあります)。つまり、「イエス様がそうしようと思われた」ということ以外、何も理由も書かれていないのです。
こうして選ばれた弟子たちは、イエス様の身近におかれ、愛され、訓練されていきました。弟子たちは、イエス様と共にいて、イエス様のみわざを見、イエス様のことばを聞き続けたのです。それは、イエス様がいなくかってから教会を立て上げるためでした。彼らは、最初の教会の指導者になっていくのです。
しかし、彼ら12人のうちひとりユダは、イエス様を裏切り、残りの者も、イエス様がつかまり十字架にかけられた時は逃げ出してしまい、イエス様とは関係ないと言ってしまうような者たちでした。イエス様はそういう弟子と過ごされました。
使徒たちは気まぐれであり、血気にはやり、疑り深く、自分勝手でした。しかし彼らはみな、イエス様の十字架を見、復活なさったイエス様にお会いして変えられていったのです。
■私たちの選び
私たちひとりひとりもそうです。私たちは、イエス様がこれと思って選んでくださった者、イエス様ご自身が望まれたひとりひとりなのです。イエス様が選んだ基準が愛があるからとか、謙遜だからとか、思いやりがあるからとか、そういう基準だとしたらどうでしょうか。だれも選ばれなかったかもしれません。それどころか、コリント人への手紙第1にはこう書いてあります。
コリント人への手紙第1、1:26−29「兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。」
この聖書を読むたびに、神様の選びについて驚きと恐れを感じます。わざわざ神様は、弱い人、愚かな人を選ぶと宣言していらっしゃるのです。エペソ人への手紙にはこうあります。
エペソ人への手紙2:8−9「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」
「行いによるのではありません」とあります。それにしても、これは深い奥義です。どう考えても不思議としか言いようのない神様の基準です。神様の基準はこうです。
イザヤ書43:4「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
私たちは弱く、愚かであっても、神様の目には、私たちは高価で尊いとおっしゃってくださっている。神様は私たちを愛しておられます。愛するがゆえに、私たちの罪を赦そうと、神の御子イエス様が十字架にまでかかり、死んでくださったのです。
神様によって選ばれて、イエス様を信じる者とされた私たちです。そして、神様によってだんだんと変えられていっている私たちです。そのような私たちであることを覚え、感謝し、今日の聖餐式に臨みたいと思います。
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