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2008年12月14日 主日礼拝説教
「どんな罪も赦される」(マルコの福音書3章20節〜30節)
■はじめに
イエス様のもとには病気の人、悪霊につかれた人、悲しみの中にある人、罪人と呼ばれこの世から見捨てられた人たちなどがたくさんやって来ました。みなイエス様の新しい教えを聞き、病をいやしていただくためにやってきました。
しかし、ユダヤの律法学者パリサイ人たちは、ヘロデ党の者たちといっしょになり、イエス様をどうして葬り去ろうかと相談を始めました。そのような時に、イエス様は12人の使徒を任命されました。そしてイエス様は、またご自分の町、カペナウムに帰って来られました。
■身内の者と律法学者がやってくる
20イエスが家に戻られると、また大ぜいの人が集まって来たので、みなは食事する暇もなかった。21イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ」と言う人たちがいたからである。
イエス様の家とは、ガリラヤ湖のほとりにあったカペナウムのシモン・ペテロの家と思われます。そこには、以前イエス様にいやしていただいたペテロのしゅうとめもいっしょにいました。そこに大勢の人たちが押し寄せてきたのでした。
イエス様たちは、食事をする暇もないほどの忙しさでした。そこに身内の者がガリラヤのナザレから来ていました。イエス様が「気が狂った」ということを聞いたからでした。そこには「エルサレムから下って来た律法学者たち」もいました。彼らは何か事があれば、イエス様を捕らえようと、エルサレムからガリラヤまで出張してきていました。彼らは言いました。
22また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。
■ベルゼブルに取りつかれている
律法学者たちは、イエスは神の子ではない。イエスが力を持って悪霊を追い出すことができるのは、悪霊たちのかしら「ベルゼブル」の力で追い出しているにすぎないと民衆を説得しようとしました。「ベルゼブル」とは、バアル(主人)・ゼブブ(邸宅)の意味と思われます。
律法学者も、自分たちの目の前で起こったことですから、イエス様が悪霊を追い出していることは否定できませんでした。しかし、彼らにはそれが神様の力によると信じたくありませんでした。
当時、悪霊の働きが活発で、悪霊につかれた人が多かったのです。それを追い出すことを商売にしている魔術師がいました。律法学者たちは、イエス様をそれと同じか、そうでなければ、ベルゼブル、悪霊のかしら、サタンであると断定したのでした。
23そこでイエスは彼らをそばに呼んで、たとえによって話された。「サタンがどうしてサタンを追い出せましょう。24もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。25また、家が内輪もめをしたら、家は立ち行きません。26サタンも、もし内輪の争いが起こって分裂していれば、立ち行くことができないで滅びます。
どんな国でも家でも、「内部分裂、内輪もめ」をしたら立ち行きません。
パリサイ人の言っているように、イエス様がベルゼブルであり悪霊を追い出しているのであれば、サタンの陣営が内輪もめしていることになってしまいます。神様がサタンを追い出すことはあっても、サタンが自分の手下の悪霊を追い出すことはありません。そんなことをすれば、サタンは分裂して自滅してしまいます。
27確かに、強い人の家に押し入って家財を略奪するには、まずその強い人を縛り上げなければなりません。そのあとでその家を略奪できるのです。
イエス様が悪霊を追い出せるのは、イエス様がサタンより強い力、神の力を持っているからです。それで悪霊を追い出すことができるのです。
■どんな罪も赦される
そしてイエス様は、律法学者と近くにいた人たちに、すばらしい約束のことばをおっしゃってくださいました。
28まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。
「まことに」はギリシヤ語で「アーメン」です。イエス様は大切なことをおっしゃるときに、この「アーメン」を言って話し始めます。
イエス様はそう言ってから、「人はその犯すどんな罪も赦していただけます」とおっしゃいました。どんな罪、すべての罪、「神をけがすことを言っても」です。聖書はこう約束しています。
詩篇32:5「私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。」
ヨハネの手紙第1、1:9「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」
神様はすべての罪を赦してくださいます。イエス様は、十字架で人々の罪の代わりに死ぬという方法をもって、このことをなし遂げてくださいました。そして、イエス様は次のことばをおっしゃいました。
■聖霊をけがす者
29しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」
「聖霊をけがす」とはどういうことでしょうか。それは、聖霊の働きを知ればわかります。御霊によらなければだれも「キリストを主、私たちの救い主」とは呼びません。
ヨハネの手紙第1、4:2−3「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。」
コリント人への手紙第1、12:3「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です」と言うことはできません。」
御霊に導かれていない人は、「イエスは主です」と告白できないばかりか、「イエスはのろわれよ」と言うこともあるのです。そのような者たちは、光であるイエス様を見ても闇であるサタンに行ってしまうのです。
ヨハネの福音書3:19−21「そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」
聖霊の働きは、その人に罪の悲惨さを知らせ、罪からの救いを望ませ、その罪が赦される道がイエス・キリストの十字架であること悟らせ、イエス様を信じるように導いてくださるのです。反対に光ではなく闇を愛する者は、聖霊の働きに目を閉ざし、神様が備えてくださった赦しの道を拒む者です。
イエス様は律法学者に、救いのチャンスを提供しました。イエス様は、いつもイエス様の近くに来た人たちを迎えてくださり、その人の罪を赦してくださいます。イエス様は律法学者に対しても、どんな罪でも赦されることを教えてくださったのでした。
30このように言われたのは、彼らが、「イエスは、汚れた霊につかれている」と言っていたからである。
律法学者も、イエス様が悪霊を追い出すというみわざを見ていました。イエス様のみわざを見、イエス様のおことばを聞いたときに、彼らも「このお方は神の子である」という御霊の内なる導きがありました。それを彼らは、御霊の導きに従わないで、「イエスはサタンのかしら、ベルゼブルだ、汚れた霊につかれている」と言い続けたのです。
彼らは、そのまま「聖霊をけがす」道を進み、行き着いたところは、神の御子キリストを捕らえ、十字架で殺すことででした。十字架につけられたイエス様を見て、最後まで、律法学者たちは「おまえは神の子ではないか、十字架からおりてみろ」とあざけり続けたのでした。
■聖霊の導きに従って
私たちはどうでしょうか。私たちは、聖霊の導きに、素直に従いました。私たちの罪を赦していただきました。聖書の約束はこのようにあります。
ローマ人への手紙8:14−15「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます。」
私たちは聖霊の導きにより、イエス様の救い主であることを信じることができました。そして神の子とされる特権をいただきました。これからも、私たちの内にいてくださる御霊に導かれ、神様の信仰生活送りながら、恵みを精いっぱい味わいたいと思います。
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