ゆりのきキリスト教会>テキスト>礼拝説教2009年1月4日
2009年1月4日 主日礼拝説教
「良い地にまかれた種」(マルコの福音書4章1節〜20節)
■はじめに
いつものようにガリラヤ湖のほとりです。イエス様の評判を聞いて、ひと目イエス様を見よう、そのお声を聞こうとする人が大勢押し寄せていました。
1イエスはまた湖のほとりで教え始められた。おびただしい数の群衆がみもとに集まった。それでイエスは湖の上の舟に乗り、そこに腰をおろされ、群衆はみな岸べの陸地にいた。
それで、イエス様は、湖の上の舟に乗ってお話をされました。ガリラヤ湖の漁師であったペテロたちが舟を用意していたのでしょう。イエス様はその舟に腰をおろしてお話をなさいました。岸辺にいた群衆は、イエス様のことばをじっと聞いていました。
■種がまかれた地面のたとえ
そのお話の中に、「種がまかれた地面のたとえ」、あるいは「種まく人のたとえ」と云われるたとえ話がありました。
2イエスはたとえによって多くのことを教えられた。その教えの中でこう言われた。3「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。【新改訳改訂第3版】4蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。5また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。6しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。7また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。8また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」
この種まきは2000年以上も前に語られたユダヤの農業の話です。どうするかというと、耕す前に種をまくのです。日本では考えられないことですが、耕す前に畑一面に種をまいて、それから鋤を入れるのです。ですから、種が飛んで道端に落ちることもあります。そこも畑の中で、農夫が歩いてできた道です。耕せばまた畑になるところですが、耕す先に鳥が来て食べてしまいます。
畑の中には岩地もあります。そこにも種が飛んでいきます。ここに落ちた種は土が深くないので、すぐ芽を出しますが、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまいます。
いばらの中に落ちた種もあります。土の中にいばらの根が残っていたので、後から茂ってきて芽を覆ってしまい、種は実を結ぶことができません。
良い地に落ちて耕された所だけが、実を結びました。
■神の国の奥義
10さて、イエスだけになったとき、いつもつき従っている人たちが、十二弟子とともに、これらのたとえのことを尋ねた。
弟子たちにはこのたとえ話の意味がわからなかったので、後でイエス様にお尋ねしました。イエス様はおっしゃいました。
11そこで、イエスは言われた。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。12それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため』です。」13そして彼らにこう言われた。「このたとえがわからないのですか。そんなことで、いったいどうしてたとえの理解ができましょう。
このたとえ話は、イエス様が弟子たちに「神の国の奥義」を知らせるためでした。イエス様が「ほかの者」と言った人たちには、その奥義は隠されていました。それは、彼らが「見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らない」からでした。
イエス様の周りには多くの群衆が集まっていました。彼らは、イエス様に何を期待したでしょうか。病がいやされたいということもあったでしょう。飢えている人はパンを求めたでしょう。また、ローマの支配下にあったユダヤを独立に導いてくれるという期待もあったでしょう。そればかりか、イエス様に反対する勢力も生まれてきていたのでした。
そのような人たちは、まだイエス様を「見るには見るがわからず」、イエス様のおことばを「聞くには聞くが悟らない」者たちでした。
「神の国の奥義」とは、神のひとり子である救い主イエス・キリストが世に来てくださった。イエス様の十字架の死によって、信じるすべての人を罪から救い、神の国に入ることができるというものでした。
■たとえの説明
イエス様は、弟子たちにたとえ話をこのように説明してくださいました。
14種蒔く人は、みことばを蒔くのです。15みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです──みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。
「種はみことば」。これがこのたとえの鍵でした。みことばが道ばたにまかれた人というのは、イエス様のみことばを聞いても悟らない人のことです。鳥が来て種を食べてしまうのです。これはサタンのしわざだと言っています。
ですから、私たちがみことばを聞き悟ることができたのは、聖霊なる神様が助けてくださったからです。
16同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです──みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、17根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
みことばが岩地にまかれた人というのは、喜んでみことばを受けるのですが、あまり長続きしません。土が深くないので根をはることができず、困難や迫害に会うと、つまずいてしまうのです。この時聞いている群集、弟子たちもそうでした。みな十字架につまずいてしまいました。
18もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです──みことばを聞いてはいるが、19世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。
みことばがいばらの中にまかれた人というのは、みことばを聞いてはいるが、世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望があって、みことばの成長をふさいでしまい、実を結ぶに至らないのです。
4番目はみことばが良い地にまかれた人です。
20良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」
これまでの結果とは打って変わって驚くべき結実です。良い地にみことばがまかれると、芽を出し、育って、三十倍、六十倍、百倍の実が結ばれるというのです。これはもう、ほとんど奇蹟と言っていいことではないでしょうか。
■イエス様にとどまる
どうしたら、私たちはこのような実を結ぶことができるでしょうか。
ヨハネの福音書15:5「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」
イエス様は、ご自分とご自分に従う人との関係をぶどうとその枝の関係にたとえられました。イエス様にとどまっているなら、多くの実を結ぶとおっしゃいました。
私たちの歩みは、神様のご計画のまま進み、豊かな実を結ぶのです。これが聖書の約束です。たとえ私たちが弱く、罪に誘惑され、世が敵対し迫害しても、やがて時が来れば私たちは喜びをもって、その実を結ぶことができるのです。それが「三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たち」です。
私たちはみな、神様によって選ばれた良い地です。神様のことばには力があります。神様が種をまかれた私たちを、いつも見守っていてくださいます。私たちは神様がいつくしんでくださっている良い地ですから、神様につながって豊かな実を結ぶことができるのです。
みことばを聞いている私たちは、主によって成長させていただき、「百倍の実」を結ぶ者とされます。それが神様の約束です。主のみことばは生きていて、私たちのうちに百倍のいのちとなって実り、主の恵みと祝福はあふれるばかりになっていきます。
そのような者とされたことを感謝して、いつまでも変わらないみことばを信じ、みことばに堅く立って、これからもイエス様に従っていきたいと思います。
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