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2009年1月18日 主日礼拝説教
「生長する種」(マルコの福音書4章26節〜34節)
■はじめに
マルコの福音書4章には、「種をまく人」のたとえから始まって、いくつかのたとえ話が載っています。先週は「あかりのたとえ」「量りのたとえ」の2つのたとえ話を見ましたが、今週も2つのたとえを見ます。
マルコの福音書だけにある「生長する種」と、マタイとルカの福音書にもある「からし種」のたとえです。
■生長する種
26また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、27夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。28地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。29実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」
当時の農業に仕方は、「種をまく人のたとえ」でも説明しましたが、種まきの季節がくると農夫はまず種をまきます。それから畑を耕し、土を種にかぶせて、あとはそのままにしておくのです。
今の農業とはだいぶ違っています。今でしたら、種をまいたあと肥料をやったり、草をとったりと手をかけるでしょう。この農夫は、夜昼、寝起きしている間に、「地は人手によらず」とあるように育つままにさせているだけです。そしてある日、収穫の日が来てかまで刈り取るのです。
■種と神の国
イエス様は、種そのものに力があると言われます。神の国はそういうものなのです。
種とは、今までの文脈から、みことば、福音です。人の心にまかれたみことばは自然に生長し、芽が出て、苗、穂が出て、実がなります。それは、人間の力によることではありません。目に見えない神様の力によってみことばは生長していくのです。
「夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに」とは、ある期間を示しています。みことばがまかれた時から、少しずつ神の国は成長していきます。
イエス様は「神の国」をいろいろな意味で使っています。神の国とは、このたとえでは、神の国で与えられる永遠のいのちをもって今を生きることが神の国を体現していると言われている、その神の国を指しています。それは、私たちがイエス様を信じ、神様に従って歩む信仰の歩みです。
神の国の成長は、人の目にはそれとわかるような急速なものではありません。深く、静かに、人の心の奥底に、それは良い地で生長していく過程です。あせることはありません。自分の力によってではないからです。しかし、必ず実を結ぶことができるのです。
そのようにして神の国、信仰生活が成長していきます。このことから、私たちは、成長させてくださるのは神様であるということ、そして私たちは、ただ神様にゆだねればよい、ということを教えられます。
コリント人への手紙第1、3:6−7「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。」
コリントの教会は、パウロが最初みことばを伝えました。パウロが去ったあと、アポロがやってきました。そのとき、問題が起こりました。コリント教会は、パウロ時代の信徒とアポロ時代の信徒が反目し、分裂しそうになったのです。
そのとき、パウロが言ったことばがこれでした。植えた人、水を注いだ人がだれであっても、実がなるかどうかは人間の働きではない。神様が成長させてくださる、ということでした。
■からし種のたとえ
30節からもう1つ、神の国についてのたとえ話をイエス様は教えられました。
30また言われた。「神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。何にたとえたらよいでしょう。31それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、32それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」
からし種は、今でも地中海沿岸地方で栽培されている黒からしのことです。1年生の植物で、3メートルほどの大きさに生長します。秋になると鳥が種を食べにやってきます。この種をすりつぶして、からしにしたり、油をとったりするそうです。
私たちの信仰は、神様が与えてくださった種である「みことば」を受け入れたところから出発しました。そのみことばの教えは、私たちの罪が赦され、救われために、イエス様が、十字架で私たちの罪のために死んでくださったということでした。
みことばを聞いて私たちは、救われたいという思いを与えられ、イエス様信じました。すべてがわかったわけではありませんでしたが、最初はそのような信仰でした。
一人一人に神様が与えてくださった信仰、それが私たちの神の国の始まりでした。その神の国はこのようになると、神様が約束してくださっています。
与えられた信仰は、最初は小さいものであっても、まかれた種に大きな力があります。神様に従っていく時に、みことばの力によって、その人の生涯は、だんだんとすばらしい人生、豊かな祝福の人生へと変えられていくのです。
私たちに与えられた信仰は、最初は小さくて、手のひらに乗せて吹けば飛ぶようなものです。しかし、だんだんと生長していきます。早い遅いではありません。確実に大きくなるのです。
最初はみな小さくても必ず生長していきます。それが神様の約束です。
■教会
この2つのたとえで、神の国を私たちの信仰と見ました。これはまた、神の国とは、教会として見ることができます。イエス様は、そのことも考えておられたでしょう。
イエス様の到来で、この世における神の国、教会は開始されました。教会は、イエス様の十字架の死を土台として始まりました。十字架を前にして、弟子たちがみな逃げ去り、使徒たちでさえも逃げ去りました。しかし、彼らは、イエス様の死と復活を目の当たりにして変えられたのでした。そのような、わずかに残った弟子たちから始まったのがキリスト教会でした。
教会は、どのような迫害、反対があろうとも、最初はからし種のように小さくても、そこにいのちがあるから、大きな木になっていくのです。
それも、教会に集まる人たちがどうこうしたからではありません。自然と、気がついたら実がなっていた。そういう経過もたどるのです。すべて神様がしてくださったからでした。
確かに、教会は広がっていきました。最初、ペテロの説教によりエルサレムに教会ができました。そして、ユダヤ、サマリヤ、アジア、ギリシヤ、ローマ、そして、全世界に広がっていったのでした。どこの教会も、初めは小さな教会から始まりました。そのような教会が今もなお、新しく建てられ、広がり続けているのです。
ゆりのきキリスト教会も、大きな木になるように神様が祝福してくださっています。私たちの信仰の歩みと、教会の歩みを神様におゆだねして、また神様の約束をいただいたことを感謝して、この週も歩みたいと思います。
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