ゆりのきキリスト教会>テキスト>礼拝説教2009年1月25日
2009年1月25日 主日礼拝説教
「風はやみ、大なぎになった」(マルコの福音書4章35節〜41節)
■はじめに
ガリラヤ湖のほとりで教えられていたイエス様のところに多くの人々が集まってきて、イエス様は舟の上から種まきのたとえなどいくつかのたとえ話をお話しなさいました。イエス様は、それらのたとえから神の国の奥義を弟子たちにすべて解き明かされたのでした。それらを通して、弟子たちはだんだんとイエス様が神の御子であられ、イエス様が十字架にかかられることがどういうことなのかを知っていきます。また、さまざまな奇蹟を通しても、そのことを知っていくのです。
今日のガリラヤ湖で起こった奇蹟は、今までの病のいやしとは違って、弟子たちはイエス様が自然を支配される神の子であることをより強く知らされた出来事でした。
■突然の嵐
35さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われた。36そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。37すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。
その日の夕方です。イエス様たち一行は、舟に乗ってガリラヤ湖の向こう岸、ゲラサ人の地に渡ろうとされました。イエス様からそう言われ、弟子たちが群衆から離れて、ほかの舟といっしょに湖の沖にこぎ出すと、嵐が突然に襲ってきたのでした。ガリラヤ湖は、周囲の山から吹き下ろす激しい風のために、突然の嵐を引き起こすことがありました。
その時イエス様は、その日の伝道活動でお疲れであったのか、眠っておられました。
38ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」
弟子たちは、船が沈むかもしれない。そして、おぼれて死ぬかもしれないと思ったのです。12弟子のうち、ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネは、このガリラヤ湖で育った漁師でした。この湖のことなら小さいころから知りつくしていた彼らでした。一方イエス様は、お父さんのヨセフのあとを継いで、大工をしていた人でした。それでも弟子たちは、眠っているイエス様に、起きてください、助けてください、とお願いしたのでした。それは今まで、彼らはイエス様が行ったたくさんの奇蹟を見ていたからでした。
弟子は、今まで幾度もイエス様の行われる奇蹟を見ていました。しかし、それらはみな、自分のことではありませんでした。彼らは、イエス様に力があることをだれよりも知っていたのですが、現実に直面したときに、イエス様の力を忘れ、イエス様に信頼することができませんでした。だから彼らは恐れたのでした。それは、私たちも同じようなものです。何かがあると、神様がいてくださることを忘れてしまい、うろたえてしまうのです。
弟子たちは初めて自分の身に危険が迫るという事態に直面し、イエス様に「私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか」と声を上げたのでした。これはイエス様にしか解決の道がないと。
■イエス様が嵐を静める
39イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。40イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」41彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」
それで彼らは、イエス様が起き上がって、風をしかりつけられると、風はやみ、大なぎになったのを見たとき、弟子たちは、イエス様が自然を従わせてしまうお方であり、そして生きること死ぬことを支配しておられる神であることを知り、イエス様を信じたのでした。
このお方は、疲れて寝てしまわれる私たちと同じ人間であるけれども、同じ弱さを持っている人間ではあるけれども、なんとこのお方は、自然を従わせてしまうお方なのだ、と。
■弟子たちの信仰
イエス様は弟子たちに、「信仰がないのは、どうしたことです」と言われました。彼らは今まで何を見ていたのでしょうか。イエス様がいっしょにいてくださったのに、嵐によって舟が沈みそうになった時、弟子たちの足もとは大きく揺れ動き、不安でいっぱいになりました。
その時弟子たちは、目に前に迫ったものだけに捕らわれていました。弟子たちは、イエス様がいっしょにいてくださるなら、必ず向こう岸へ着けるということがわからなくなっていたのでした。むしろ、ゆうゆうとぐっすり眠っておられるイエス様を見て、ああこの舟は大丈夫だと思ってもよかったのでした。
イエス様は、弟子たちの「私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか」という声に、すぐに答えてくださり、その嵐を静めてくださいました。これは、イエス様に助けてくださいとお願いする弟子たちの率直、ありのままの叫びです。
私たちは、イエス様に助けてくださいとお願いする時に、ありのままを申し上げればよいのです。弟子たちは漁師なのに恥ずかしいなどとは思わず、「私たちはおぼれて死にそうです」とありのままを、してほしいことをそのままイエス様に申し上げました。
弟子たちは、イエス様がなさった奇蹟のわざを忘れ、イエス様がしてくださった、数々の恵みを忘れ、イエス様からその度に「信仰がないのは、どうしたことです」と言われてしまうような理解でしかなかったのです。しかし弟子たちは、少しずつイエス様のことがわかっていくのでした。
■恐れてはなりません
イエス様は、最後の晩餐の席でこう言われました。
ヨハネの福音書14:27「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」
主イエス様が弟子たちに与えようとしていた平安とは何でしょうか。それは、イエス様が弟子たちと私たちに、究極の愛、十字架の死をもって与えてくださった平安です。十字架によって私たちを罪から救い出し、ゲヘナと呼ばれる永遠のさばきから救ってくださるために、イエス様がいのちと引き換えに与えてくださった平安です。キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに平安を与えてくださったのです。
私たちが嵐に見舞われ、恐ろしさと不安でいっぱいになったとき、私たちには十字架の愛をもって、いのちがけで愛してくださったイエス様がいつもそばにいてくださることを忘れてはなりません。イエス様は、「助けてください」と言う私たちの声に答えて起き上がり、その嵐を静めてくださいます。そして、私たちは、必ず向こう岸に着くことができるのです。
イエス様が、私たち一人一人と共にいてくださり、必ず助けてくださいます。どんな嵐の中でも、イエス様がいっしょに舟に乗っていてくださることを信じて、一歩一歩進んで行きましょう。
ゆりのきキリスト教会>テキスト>礼拝説教2009年1月25日