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2009年2月8日 主日礼拝説教
「安心して帰りなさい」(マルコの福音書5章21節〜34節)
■はじめに
イエス様たち一行は、ゲラサ人の地から、また舟でガリラヤ湖を渡り戻ってきました。そこには、大勢の人がイエス様の帰りを待っていました。そこに会堂管理者のヤイロがやってきて、自分の娘が死にかけているので、イエス様に来て治してくださいと願いました。イエス様は、その願いを聞いて、ヤイロの家に向かいました。
その行く途中で、ひとりの女の人がイエス様に出会いました。
■長血をわずらっていた女
25ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。26この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。
長血をわずらっていた女の人は、この病気に12年間苦しんでいました。多くの医者からひどい目にあわされ、治療に全財産を使い果たしてしまい、治るどころか、その病状は悪化するばかりでした。
さらに、この病は、律法によれば(レビ記15章)汚れると言われていたため、彼女は社会に受け入れてもらえませんでした。そのような孤独と絶望の中で、この女の人はイエス様のことを聞くのです。
27彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。
イエス様の周りにはいつも群衆でいっぱいでした。しかしかえって、そのことは、女の人にとっては助けになりました。周りにだれもいなくてイエス様一人でおられたら、イエス様のそばに行く勇気など出なかったと思います。
それで、彼女はイエス様を取り巻いている群衆の中にうまく紛れ込み、そっとイエス様の着物にさわりました。
28「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていたからである。
不思議な神秘的な力を持っている人がいると、その人にことばをかけてもらったり、手で触れてもらう。それだけではありません。その人の身につけている物にも何か不思議な力がこもっている。それにさわれば治らなかった病気も治ってしまう。そのように考えられていた時代でした。
この女の人は堂々と人前に出て行くことができないので、だれにもわからないように、せめてその着物にさわることができれば、イエス様なら治してくださる、救ってくださるというひたむきな思いでさわったのでした。
■長血がいやされる
29すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。
すると、たちまち、今までどうやっても止めることのできなかった血が止まったのです。絶えず悩ませていた痛みも、うそのように体から消え去りました。まさに一瞬の出来事でした。
彼女は驚いて、その場でたたずんでしまいました。イエス様たちは急いでおられる様子だ。このままじっとしていればすぐに行ってしまうに違いない。今まで、汚れた者と言われてきた者として、それは当然の行動でしょう。
30イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われた。
イエス様はすぐに反応されました。だれかが自分にさわったことがわかったのです。31節にあるように、この群衆の中で多くの人がイエス様にさわっていたのでした。しかし、信仰をもってイエス様にさわった人が、たった一人いたのでした。
振り向いて群衆に問いかけます。「だれがわたしの着物にさわったのですか」と。この一言で女の人は、そこに釘付けになってしまいました。
イエス様は、その女の人のことを、すでにご存じであられたのです。それでもイエス様は、じっとその人が言ってくるのを待っておられたのです。
女の人は隠しておきたかったでしょう。病気のことはだれにも知られたくなかった。しかし、イエス様は自分を待っておられる。彼女は、「黙っていたら申し訳ない」と悟ったのです。
33女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。
女の人は、自分のような者にこのような恵みをくださり、黙っていても、すべてを見つけ出してしまうお方の前に、恐れて、ひれ伏すしかありませんでした。そして、イエス様に真実をありのまま話しました。
自分がどうしてイエス様の着物にさわらなければならなかったか、さわって何が起きたのかを話したでしょう。長い12年間の病気との闘い、苦しみも話したでしょう。毎日のつらかったことも。それをイエス様は静かに聞いてくださいました。
周りには大勢の人がいるのに、この女の人にはイエス様だけが見えていました。女の人は、今、自分の身に起こったこと、イエス様のやさしいまなざしを見て、イエス様の深いあわれみのみこころを知り、だれにも話すことのできないこと、自分のありのままの姿をイエス様にお見せできたのです。
■あなたの信仰
イエス様はおっしゃいました。
34そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」
イエス様は、この女の人の信仰を見てくださいました。ここにどのような信仰があるのでしょうか。迷信のような、幼稚な信仰でしかない。自分の体を縮めて、そっとイエス様の着物にさわった女の人の思いを、イエス様のほうで、これはあなたの信仰、「あなたの信仰があなたを直した」と言ってくださったのです。
イエス様は、ただひたすら、イエス様に期待して、「イエス様なら治してくださる」というその思いだけで着物にさわった彼女の信仰を見てくださったのです。
彼女にあったのは、イエス様を求め、慕う思いだけでした。女の人がしたことは、正しい求め方、やり方でなかったかもしれません。それは迷信と言われてしまうような信仰でした。
ただひたすらイエス様に期待し、イエス様に近寄り、すがっていく、さわっていく。そんな、自分ではこれが信仰とは思っていないような思いを、イエス様は見てくださり、「あなたの信仰」と認めてくださったのです。
イエス様の前に出る時、お会いする時、自分の今の状態、格好、心を気づかう必要はありません。なりふりかまわず、悩み、悲しみをそのままを持ってイエス様に触れていけばいいのです。
■安心して帰りなさい
イエス様は、この女の人に、本当に日常的なことばで送り出します。「安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」彼女は、このあと生活は決して楽ではなかったかもしれませんが、イエス様のことばをいただいて、「病気にかからず、すこやかに」明るく生きたでしょう。
でも女の人は、それから2年もたたないうちにイエス様が捕まり、十字架の刑に処せられることを聞いて、悲しみの中に落とされたでしょう。あのやさしいイエス様が何で、と。私がイエス様にお会いした時は、あんなに大勢の人がおしかけ、そばに寄ることもできなかったのに、十字架を背負い、悲しみの道を倒れそうになって歩んでいった時には、だれもそばに寄ろうともしなかった。十字架にかけられ、「他人は救ったが、自分は救えない。たった今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから」と言われても、黙っておられた。なぜイエス様は十字架にかかって死んでしまったのだろう。
しかし、女の人は、そのあと3日目に、復活されたイエス様のことを聞いたでしょう。彼女は知りました。なぜイエス様が十字架にかかったかを知りました。
イエス様は私の罪のために、代わりに十字架にかかってくださったのですね。イエス様は神の御子であられたのですね。イエス様、ありがとうございます。感謝します。
この女の人は復活されたイエス様を知って、イエス様を信じるということが、病のいやしだけでなく、罪の赦しをもたらし、イエス様から「安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい」ということばが永遠のいのちにつながっているという、さらに大きな恵みがわかったのです。
私たちは、かつて「安心して帰りなさい。すこやかでいなさい」とお声をかけていただきました。それは、イエス様の恵みに触れた者、罪を赦していただいた者すべてにかけてくださるイエス様のお声です。
イエス様は、今日も「安心して帰りなさい。すこやかでいなさい」と言ってくださっています。イエス様は、どんな小さな信仰でも、主イエス様にゆだねるとき、イエス様は私たちの心の思いを聞いてくださり、その信仰を見てくださり、「安心して帰りなさい。すこやかでいなさい」と言ってくださいます。この週も、イエス様のこのおことばを聞きながら歩みたいと思います。
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