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2009年3月22日 主日礼拝説教
「5つのパンと2匹の魚で」(マルコの福音書6章30節〜44節)
■弟子たちが帰ってくる
伝道に遣わされた弟子たちが帰ってきました。彼らは、自分たちがしたことと、教えたことを残らずイエス様に報告しました。イエス様は弟子たちの伝道報告をお聞きになっておっしゃいました。
31そこでイエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。32そこで彼らは、舟に乗って、自分たちだけで寂しい所へ行った。
イエス様は、弟子たちに休息をとるようにおっしゃいました。弟子たちは舟に乗って、湖の向こう岸にわたって行きました。
33ところが、多くの人々が、彼らの出て行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ徒歩で駆けつけ、彼らよりも先に着いてしまった。
大勢の群衆が、イエス様や弟子たちが舟で移動したのに気がつきました。イエス様の働きは、弟子たちが伝道したこともあって、ガリラヤ中に知れ渡っていました。彼らは、イエス様の一行がどこかに隠れてしまうのではないかと、駆けるように道を急ぎ、舟がつく前に上陸地点に着いてしまいました。人々はイエス様からの恵みを求めていました。
■多くの群衆を前にして
34イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。
舟から上がられたイエス様は、多くの群衆をご覧になられました。イエス様はご自分に迫りくる人々を「羊飼いのいない羊のよう」だとご覧になり、「深くあわれ」まれました。これがイエス様のお心でした。
イエス様の話が続き、かなりの時間がたちました。弟子たちは心配になってきました。大勢の人が食事もせず、イエス様の話に聞き入っていたのです。弟子たちは、イエス様に群衆を解散させ、めいめいで食べ物を用意させることを提案しました。弟子たちは、イエス様のもとに集まった人々を、食べ物を買わせるために去らせようとしたのです。
しかし、イエス様のお答えは違いました。イエス様は思いがけないことを言われました。
37すると、彼らに答えて言われた。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」そこで弟子たちは言った。「私たちが出かけて行って、二百デナリものパンを買ってあの人たちに食べさせるように、ということでしょうか。」
「二百デナリ」とは大きな金額です。当時1日の賃金が約1デナリだったそうですから、200日分の賃金に相当する額ということになります。
弟子たちのことばには、「イエス様、それは無理な注文です。私たちの手に負えません」という思いが現れています。確かに、これだけのパンを1度に買い集めることは不可能でした。
38するとイエスは彼らに言われた。「パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい。」彼らは確かめて言った。「五つです。それと魚が二匹です。」
イエス様は、「パンはどれぐらいあるか」調べなさいと尋ねられました。弟子たちは、イエス様の言われたとおり調べてみました。すると、これだけでは役にたたないと思われるようなものがイエス様に報告されました。パンが「五つです。それと魚が二匹です。」
ヨハネの福音書によれば、それは少年が持っていた弁当でした。これは、この大勢の人々のためには無いに等しいものでした。弟子たちは、自分たちではこれ以上どうすることもできないことを知りました。
■5つのパンと2匹の魚で
イエス様は弟子たちに、人々を組みに分けて青草の上に座らせるように命じられました。弟子たちは、落ち着き払ったイエス様のことばに、いつものようにイエス様に従い、手分けして群衆の中に入って行きました。男の人だけで5000人の人々が、100人、50人と固まって座りました。50組から100組の集団ができました。
それからイエス様は、5つのパンと2匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンをさき、弟子たちに渡されて人々に配るようにされました。すると驚くべき奇蹟が起こりました。小さなパンと魚がさかれては、差し出された人々の手に渡っていきます。奇蹟は整然と行われました。組になっていたからです。離れたところにいる人たちにも、十分なパンと魚がありました。
弟子たちは、さいてもさいてもなくならないパンと魚の奇蹟を見たのです。わずか5つのパンと2匹の魚が、5000人以上の人々を養いました。
43そして、パン切れを十二のかごにいっぱい取り集め、魚の残りも取り集めた。44パンを食べたのは、男が五千人であった。
イエス様は、「余ったパン切れを集めなさい」と言われました。弟子たちがかごを持って群衆の中に入って行くと、残ったパン切れが12のカゴにいっぱいになりました。男だけで5000人、女、子供を入れると、もっと多くの人がおなかいっぱいパンと魚を食べることができました。これほどの多くの人が十分食べて、なお残りが12のかごにいっぱいになったとは、なんという豊かさなのでしょうか。
■神様が私たちを用いてくださる
5000人以上の人を養うには、とても足りないと思われた5つのパンと2匹の魚。自分たちのためにでさえ、十分でないと思われたパンと魚を、イエス様は人々に配りなさい、とおっしゃいました。イエス様のおことばどおり、配り始めると、いくら配ってもなくならない、どんどん配ることができたのです。イエス様の恵みをたくさんの人々に豊かに分け与えることができ、しかも余ってしまったのです。
私たちも、このすばらしい恵みを体験することができます。イエス様は、私たちにこう尋ねることがあるでしょう。「パンはどれぐらいありますか。」そして私たちも、弟子たちと同じようにこう答えるでしょう。正直に、「五つです。それと、魚が2匹です」と。
私たちが持っているものは一人一人違うでしょうが、それをイエス様が用いてくださるのです。しかし、それさえも、神様から与えられたものです。イエス様がそれを、手にとってくださる時、そして、天の祝福をもってこれを人々に配るようにとおっしゃってくださる時、それは決してなくならず、配っても配っても足りなくならないばかりか、配られた人もそれを満足して、受けることができます。
そのようにして、イエス様から与えられたものが伝わっていきます。そのような体験を私たちもすることができるのです。
■良い羊飼いであるイエス様
イエス様はイエス様のもとにきた、一人一人に目をとめられました。イエス様は、「彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれ」まれました。これがイエス様のお心でした。
この「あわれみ」ということばは、ギリシヤ語で内臓がちぎれるほどつらく、悲しむという意味が込められたことばです。イエス様は、人々の悲しみを、このように悲しみ、苦しみを共に覚えられました。
イエス様は、そのようなお心を持った私たちの羊飼いなのです。
ヨハネの福音書10:11「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」
ダビデは、神様が羊飼いであることを、詩篇23篇で歌いました。
詩篇23:1−2「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」
私たちも、神様のもとに憩う時、すべてが満たされ、乏しいことは何もなく、満ち足りることを覚えたいと思います。
■いのちのパン
この奇蹟は4つの福音書全部に書かれているただ一つの奇蹟です。ヨハネの福音書によると、そのあとイエス様は民衆に、あなたがたは今パンを食べ、満足しているが、満腹しただけで終わってはいけません。大事なのは神様が与える天からのパン、いのちのパンを食べることです、と教えられました。
イエス様は良い羊飼いであるばかりか、羊飼いみずからいのちを捨てて、そのいのちのパンになってくださいました。
ヨハネの福音書6:48、51「わたしはいのちのパンです。……わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。」
わずか5つのパンと2匹の魚で男の人5000人に恵みを与えてくださったように、ひとりの人、イエス様の十字架の死は、イエス様を信じるすべての人たちに、新しい、永遠のいのちを与えるのす。
ヨハネの福音書12:24「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」
これは、イエス様が、最後の1週間をエルサレムで過ごされたとき、まもなく十字架にかかろうとしていた時に語ったことばです。イエス様の十字架の死が豊かな実りとなって、私たちに救いと喜びをもたらしました。その死によって私たちに罪の赦しがもたらされました。
それは、その人の生き方を根底から変え、それが、さらに人々に伝えられ、恵みが次々と分けあたえられていくのです。
そのような恵みの中に入れられたことを感謝して、これからも歩みたいと思います。
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