ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2009年3月29日


2009年3月29日 主日礼拝説教
「近づいて来られるイエス様」(マルコの福音書6章45節〜56節)

■ガリラヤ湖を渡る
 これまでに、ガリラヤ湖を渡る記事が2回ありました。1回目は、嵐の中を舟で渡りました。その時はイエス様が起き上がって、嵐を静められました(5:35)。2回目は、伝道旅行から帰って来た弟子たちを休ませようとして、向こう岸に渡ったことでした(6:32)。着いた所で、男5千人の人たちへの給食の奇蹟がありました。そして今回、イエス様はまた向こう岸のベツサイダに弟子たちを行かせようとしました。

45それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ、ご自分は、その間に群衆を解散させておられた。46それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。

 イエス様の5千人の給食の奇蹟のあと、奇蹟を見た熱狂的な群集は、イエス様こそ自分たちの国をローマから救い出してくれるお方だと期待し、ユダヤの王に祭り上げようとしました。騒ぎが大きくなりました。ヨハネの福音書6章によると、イエス様はそのあと、ご自分がいのちのパンであることを説教しました。
 そのような中、弟子たちがその混乱に巻き込まれそうになったのか、あるいは、弟子たちで解散させることができなくなったのでしょう。そこでイエス様が、弟子たちを「強いて舟に乗り込ませた」のでした。
 そのあとイエス様は、群衆を解散させ、群衆と別れてひとり静かに祈るために山へ退かれました。それは、父なる神様との祈りによって、ご自身の疲れをいやすためであったでしょう。また人々の「羊飼いのいない羊のようであることをあわれみ」、そのことを祈るため、また人々の熱狂的な支持の中、人々が、人はパンだけでなくみことばによって生きることができるようにという祈りであったでしょう。

■湖の真ん中で漕ぎあぐねていた弟子たち

47夕方になったころ、舟は湖の真ん中に出ており、イエスだけが陸地におられた。48イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。

 ガリラヤ湖は、夕方になると、陸地と湖との気温の変化によって、よく突風が起こりました。湖に漕ぎ出した弟子たちもそれにつかまってしまいました。それが「向かい風」なので、進もうにも進めない。弟子たちがどんなに漕いでも前に進めなくなってしまいました。それが「夜中の三時ごろ」まで続いていました。
 以前のときはイエス様が舟に乗っておられましたが、今度はイエス様がおられません。
 しかし、これにはイエス様の計画、目的があったと思われます。それは、このことによって信仰を成長させるためでした。またどんな中でもイエス様がいてくださり、助けてくださることを弟子たちに学ばせるためでした。
 イエス様は「陸地」にいて、弟子たちが嵐の中を逆風と高波に悩んでいるのをじっと見ておられました。弟子たちが、自分たちだけで波と苦闘していると思っていた時も、イエス様は見ておられたのです。
 神様は、本当に私たちが神様を必要とする時まで、私たちが神様を受け入れ、神様に全面的におまかせするまで神様は待っておられることもあるのです。
 イエス様は弟子たちの信仰を試そうされ、「そのままそばを通り過ぎようと」されました。

■近づいて来られるイエス様

49しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげた。

 弟子たちは夕方から夜中まで、湖の真ん中で風と波に翻弄されていました。この時、「夜中の三時ごろ」が、弟子たちにとっていちばん必要としている時でした。
 しかし弟子たちは、イエス様のお姿を見て安心しませんでした。彼らは「幽霊だと思って」しまいました。弟子たちは、本物のイエス様だとは思わなかったのです。嵐の中を水の上を歩いて来るなんてだれも想像できないでしょう。
 イエス様は、水の上を歩かれるという不思議な奇蹟をもって、悩む弟子たちのところに来てくださいました。しかし弟子たちは、イエス様が来てくださった。イエス様がいてくださるからもう安心、向こう岸につけると信じることができませんでした。そればかりか、幽霊だと思い、おびえてしまったのです。

50というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。

 イエス様は言われました。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」
 「わたしだ。」これは、モーセに神様が現れた時、モーセがあなたはどなたですか、と神様に尋ねた時、ご自分の名前を「わたしはある」とおっしゃったことばです。イエス様ご自身が神であることを示される時に使うことばです。
 「しっかりしなさい。恐れることはない。」イエス様は、このわたしが、この嵐の中、大波の中、あなたと共にいると声をかけてくださいました。
 このあと、マタイの福音書14章22節からの並行箇所では、ペテロがイエス様のところまで歩こうとします。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」(14:28)。そう言ったペテロは嵐の中を歩き出しますが、イエス様を見ないで嵐と大波を見て不安になり、沈みそうになってしまうのです。

51そして舟に乗り込まれると、風がやんだ。彼らの心中の驚きは非常なものであった。

 イエス様とペテロの二人が舟に乗り込むと嵐がやみました。弟子たちの心中は驚きでいっぱいでした。彼らは、信仰が試されましたが、それに失敗してしまいました。

52というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである。

 弟子たちはパンの奇蹟から学ぶことができなかったのです。イエス様の力を悟らなかったのです。イエス様が自然を超越される神ご自身であることを理解できなかったのです。彼らの信仰は小さく、心はまだかたくなでした。

■ゲネサレの地で
 さて、イエス様を乗せた舟は、静かになった湖をそのまま進んでいきました。

53彼らは湖を渡って、ゲネサレの地に着き、舟をつないだ。

 ベツサイダに行くはずが、強風のためでしょう、ゲネサレの地に着きました。イエス様のところに、イエス様を求める人たちがたくさん集まってきました。ある者は、イエス様なら治していただけるという信仰をもって病人を連れて来ました。ある者は着物の端にさわれば治るという信仰をもってやってきました。イエス様はそれらの人々を、その願った信仰を受け入れ、みないやされました。
 イエス様の名声はますます高まっていきました。しかし人々は、イエス様を王にすること、病をいやしてくださるお方として見ていたのでした。
 その後、イエス様は、ご自分がユダヤの指導者から苦しみを受け、死ぬこと、そしてよみがえることを語るようになります(8:31)。それは、人々の罪の身代わりの十字架の死でした。そして、弟子となった者はそのためにいのちを失うこともあると教えるのです。
 イエス様が、そのためにガリラヤからエルサレムに向かって行くようになると、イエス様のまわりに集まっていた多くの人たちは、しだいにイエス様のもとから離れていくのでした。

■試練の中
 イエス様は、強いて弟子たちを漕ぎださせました。その結果の嵐でした。私たちも、そのような試練に会うことがあります。
 私たちは、嵐の中を進むような生活をしています。試練が襲ってきたときに、私たちはイエス様がおられないと感じてしまいます。そんなとき、イエス様は私たちに近づいて、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と声をかけてくださいます。イエス様を呼ぶことさえ忘れてしまうような信仰でも、嵐の中でも、いつもイエス様のほうで近づいてくださいます。

コリント人への手紙第1、10:13「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」

 神様は、そのように私たちを助けてくださるのです。毎日の歩みの中で、このようなときにはイエス様はおられないのではないかと思えるようなときも、「わたしだ。恐れることはない」とおっしゃってくださいます。「試練とともに脱出の道も備えてくださる」神様です。いつもそばにいてくださる神様を信じて歩みたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2009年3月29日