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2009年4月12日 主日礼拝(イースター)説教
「イエス・キリストの復活」(マルコの福音書16章1節〜8節)
■はじめに
イエス様は金曜日の朝9時に十字架につけられ、午後3時を過ぎて「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。それから間もなくして、イエス様は息を引き取られました。
イエス様が亡くなると、ユダヤの有力議員であったアリマタヤ出身のヨセフが、ピラトのもとに行き、イエス様の体の下げ渡しを願いました。ヨセフは、神の国を待ち望み、ひそかにイエス様を信じていました。ピラトは、立ち会っていた百人隊長を呼び出し、すでに死んでしまったかどうか問いただし、そうと確かめてからイエス様の体をヨセフに下げ渡しました。ヨセフは、自分が持っていた新しい墓にイエス様を埋葬しました。
その時、以前、夜にイエス様のところに来て、イエス様から教えを聞いたニコデモも、没薬とアロエを混ぜたものを30キロ持って来て、埋葬に立ち会いました。
ユダヤの墓は横穴式で、岩を掘り、そこに遺体を安置し、入口に大きな石を転がしてふさぎます。この一部始終を、マグダラのマリヤとヨセの母が見守っていました。
■復活の朝
1さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。
土曜日の日没が過ぎて、「安息日が終わった」ので、3人の女の弟子たちは香料を買い、イエス様の体に油を塗りにいこうと思いました。この3人は、十字架を最後まで見ていた女性たちでした。彼女たちの行動を通して、十字架の死、埋葬、復活という出来事が一つにつながることになります。
彼女たちは、これがイエス様にできる自分たちの最後の奉仕になると思っていました。ところが彼女たちは、復活したイエス様の最初の奉仕者となったのでした。
2そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。3彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか」とみなで話し合っていた。4ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。
彼女たちは、墓の入口の大きな石をどうしたらよいか、何の計画もなく、墓のところにやってきました。また、墓石には封印がされて、墓の前には兵士たちが番をしていたのです。しかし、彼女たちが着いた時、兵士たちは逃げ出した後であり、すでに石がころがされていたのでした
5それで、墓の中に入ったところ、真っ白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。6青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。
墓の中には真白な衣をまとった青年、これは主の使い、天使でした。墓の中に座っていた天使が言いました。「驚いてはいけません。」
復活の時に、弟子たちのだれもが持ったことは、「驚き」と「恐れ」でした。8節がそれを印象的に伝えています。「恐ろしかったからである。」
「驚き」と「恐れ」はまた、イエス様の生涯、誕生の時からあったことでした。それほどイエス様の生涯は、人間にとって驚きと恐れの連続でした。
主の使いは、イエス様がよみがえられたことを伝えました。「ここにはおられません。」十字架で死んだお方が確かにここに葬られたが、ここにはその遺体がありません。どこかに移したのではない。よみがえられたと言うのです。
彼女たちは、お墓が空であったから復活をすぐに信じられたわけではありませんでした。いくら天使がそう伝えても信じることはできなかったでしょう。この復活が幻ではなく歴史的事実であることを、確かにイエス様が復活なさったことがわかるように、弟子たちにイエス様がお会いなさろうとしたのでした。
■ガリラヤでの再出発
7ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』とそう言いなさい。」
特にペテロの名前が告げられます。ペテロは、イエス様が十字架にかかる前に、3度、「知らない、自分とはかかわりがない」と言いました。弟子たちもイエス様が逮捕された時、イエス様を見捨てて逃げていってしまいました。そのような弟子たちを、イエス様はもう一度召し出そうとしておられたのです。
弟子たちはイエス様と再会できるのです。しかもガリラヤで。そこは、弟子たちの出身地でした。また、イエス様が最初に弟子たちを召し出した所でした。それは、失敗した弟子たちへの赦しと再出発への約束でした。羊飼いであられるイエス様が、ガリラヤに弟子たちをもう一度集めようと、先だって行っておられるのでした。
すでにイエス様がご自分の十字架の死によって弟子たちを赦し、イエス様がまた弟子として召し出そうとしていました。そして、イエス様がかつてガリラヤで約束された「人間をとる漁師にしてあげよう」という約束を、これから実現させるために、ガリラヤに戻るのでした。イエス様が「先にガリラヤへ行かれます」ということばには、そのような深い意味が込められていました。
弟子たちはイエス様に赦しを求めたいと思ったでしょう。その機会をイエス様のほうから作ってくださったのでした。
■恐ろしかった
8女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
主の使いの命令にもかかわらず、彼女たちは恐ろしかったので、逃げ出してしまいました。
マルコの福音書は、この復活という衝撃的な出来事が確かに起こったことを、「女たちは恐ろしかったから」ということばを最後に突然終わってしまいます。9節以降は、有力な初期の写本にありませんので、マルコの福音書はそこまでであり、それ以降は後の他の福音書を参考にして続きを書き加えたものです。
女たちは、その後イエス様の復活を弟子たちに伝えました。そのあとに書かれたマタイの福音書では、「彼女たちは恐ろしくはあったが、大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った」と書いています。
復活の出来事は、ほかの福音書を読むと、順序など、少しずつ食い違いが見られます。それは、復活を知った人々の驚きと混乱を示していると言えるでしょう。また、福音書を書いた弟子が何をいちばん伝えたかったにより、違ってきているのでしょう。
■復活の主に出会ったから
イエス様が十字架で亡くなられた後、弟子たちはユダヤの人々からの迫害を恐れていました。しかし、たった数週間でそれが変えられ、今度はイエス様の名によって、人々に福音を語り、反対する人に立ち向かっていくようになりました。弟子たちのこのような変わりようは、イエス様が本当によみがえられたからであり、ガリラヤで、もう一度イエス様にお会いして使命を与えられたからとしか説明ができません。
ペテロはイエス様に赦され、立ち直ってから、大胆に多くの人に向かって、
いつも同じことを語りました。「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」弟子たちの別人のような力強い行動は、もし復活がなかったならば、説明できないほどの変わりようなのです。
十字架と復活は、私たちの罪が赦され、私たちが義とされることが、私たちの目に見える形で明らかにされた出来事でした。
ローマ人への手紙4:25「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」
そして、イエス様は復活されて、天に昇り、神様の右の御座につかれました。それによって、イエス様の十字架による救いが完成し、信じる私たちが神様の恵みにあずかることが保証されたのです。
イエス様は今も生きておられます。イエス様は今も生きておられ、私たちを助けていてくださいます。このことを私たちも、ガリラヤに行ってイエス様にお会いした弟子たちと同じように、イースターの日を迎えるたび、覚えたいと思うのです。
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