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2009年4月19日 主日礼拝説教
「本当にきよめるもの」(マルコの福音書7章1節〜23節)
■はじめに
「そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどのようにして葬り去ろうかと相談を始めた」(3:7)。
これは、安息日には病人に治療してはならないというユダヤ教の教えにイエス様が違反したとして、そのような相談を始めた箇所でした。しかしその後、イエス様たちの教えはガリラヤ中に広まり、さらに民衆の支持を集めていました。そのような中、イエス様のもとにユダヤ教に違反していないかどうかを調べるため、エルサレムから調査官が派遣されてきました。
■きよめの問題
1さて、パリサイ人たちと幾人かの律法学者がエルサレムから来ていて、イエスの回りに集まった。
今回、問題にしたのはきよめの問題でした。
2イエスの弟子のうちに、汚れた手で、すなわち洗わない手でパンを食べている者があるのを見て、3──パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わないでは食事をせず、4また、市場から帰ったときには、からだをきよめてからでないと食事をしない。まだこのほかにも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんある──5パリサイ人と律法学者たちは、イエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか。」
彼らの問題としたことは、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか」でした。
「手をよく洗わないでは食事をせず」とか「市場から帰ったときには、からだをきよめてからでないと食事をしない」、「杯、水差し、銅器を洗うことなど」は、宗教的儀式です。手は、日常生活で、この世の汚れたものや人々と触れやすい部分です。外出した時は、どこで手が汚れてしまうかわかりません。それで帰宅した時には、手だけではなく、体も洗わなければならなかったのでした。
しかし聖書の元の教えは、祭司に対する教えでした。これを一般の人にも拡大し、外出や食事のたびに、きよめの儀式が必要とされるようになりました。きよめない手で食事をすれば、食物は汚れ、そしてその食物によって体が汚れると考えたのです。
「パリサイ人をはじめユダヤ人は」いつでも神様に喜んでいただくためにはどうするか、聖書にある律法をいかに違反しないで歩むかを考えました。その結果、ラビたちによる律法の解釈、その説明、補足、判例が言い伝えとしてまとめられていきました。
最初は律法の解説書でしたが、それがしだいに聖書と同じ権威を持つようになり、聖書に代わるものとなっていきました。それが、ここに出てきた「昔の人たちの言い伝え」と言われるものです。現代のユダヤ教の経典・タルムードと呼ばれているものの基となったものです。
律法学者たちの弟子たちの罪を指摘したのは、聖書からではなく、この「言い伝え」に基づく訴えでした。言い伝えは、時代とともにその数がどんどん増えていき、それを厳格に守っていれば、それがその人の神への熱心さ、敬虔さを示すものとなりました。
その言い伝えに真っ向から否と唱えたのが、イエス様の新しい教えでした。パリサイ人たちは、外見は敬虔さを見せていましたが、その心は神様から離れていました。たくさんの規則を守るために、規則に縛られ、人目を気にする宗教になっていました。それがイエス様の指摘でした。
■人間の言い伝えを守る
イエス様はそれに対して、イザヤ書のことばを引いて答えられました。
6イエスは彼らに言われた。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。7彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』8あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」9また言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです。
宗教指導者たちは先祖からの言い伝えを守っていましたが、それが形式的・表面的になっていました。彼らは口では神を敬い、心は遠く神から離れていました。
彼らの熱心さは、どこが違っていたのでしょうか。それは、「人間の教えを、教えとして教えている」からでした。先祖たちの言い伝えに従うことが、かえって神様の教えを破ることになっていました。イエス様は、それを具体例をあげて説明しました。
10モーセは、『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は死刑に処せられる』と言っています。11それなのに、あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば、12その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。
言い伝えに、「神様におささげします」(「コルバン」)と言ったことばは変更できない、とありました。ところが、その言い伝えを悪用する人たちが現れました。将来、両親を扶養するために使うべきお金を、神殿にささげると誓うことによって、その義務から逃れようとする人たちです。
コルバンの教えは、本来は神を第一にするという言い伝えであったものが、「あなたの父と母を敬え」というモーセの十戒の第6の戒めを破ることになってしまいました。
イエス様は、きよめについての質問には触れないで、その規定が載っている言い伝えが神様のみこころを妨げていることを明らかにしました。彼らは、細かい規定を守ることに熱心になり、生きた信仰に生きることより優先するようになりました。イエス様は、言い伝えには従ってはならないことを明らかにしました。
さまざまな規定を設けて神の律法を守ることがイエス様のみこころではありませんでした。まことの敬虔は、心がどうあるかにかかっているのです。
パリサイ人たちは、それを聞いて立ち去っていったのでした。
■何が人を汚すのか
そのあと、イエス様は群衆に向かって、何が人を汚すのかをお話ししました。
14イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい。15外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」
汚れたものへの接触によって人は汚れません。汚れは外から入ってくることはなく、人から出てくると教えられました。弟子たちは、イエス様にその意味を尋ねました。
19そのような物は、人の心には、入らないで、腹に入り、そして、かわやに出されてしまうのです。」イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。
汚れたものを食べたとしても、それは心には入らず、腹に入り、かわやに捨てられるだけです。必要なものだけを体が吸収し、残った者は排泄されてしまいます。ですから、きよめの儀式をしないで食べてしまったとしても、それがその人を汚すわけではありません。だから、イエス様は何を食べてもよい。すべての食物はきよい、としたのでした。
まことの汚れは、人の内側から出てくるものです。
20また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。21内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、22姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、23これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」
イエス様は内側から出てくる悪をあげて、これらは、みなきよめの儀式をしなかったから出てくるのではなく、心の中から出てくることを示しました。
■十字架によるきよめ
このことにパリサイ人たちは気づきませんでした。ですから、それをきよめられるためにはどうしたらよいかに心が向きませんでした。これらはきよめの儀式によって、またそのほかの言い伝えを守ることによっては解決されません。
イエス様はそのきよめのために来てくださいました。汚れている者と言われていた取税人、病にかかっていた者、異邦人たちは、イエス様によってその罪が赦され、きよめられるという体験をしたのでした。
イエス様は、これらの罪を、すべての人が持っていることをご存じで、その罪を神様の前に赦していただくために、代わりに十字架にかけられました。人の罪は、払い落したり、水で洗いきよめたり、修行によってきよくなれるものではありません。罪は外側について汚しているのではなく、内側から、人間の根源にその原因を持っているから出てくるのです。
人は罪から逃れたい、きよくなりたいという意思は持っていますが、それをする力がないのです。それを人の力できよめることができない。そして、その方法を人間が考え出すことができないのです。
それは、神様の方法によらなければならなりませんでした。それが、神ご自身が代わりにその罪の刑罰を受けるという方法でした。本当にきよめるもの、それは十字架でした。イエス・キリストの十字架のみが罪をきよめてくださるのです。
ヨハネの手紙第1、1:7「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」
ヘブル人への手紙1:3「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」
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