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2009年4月26日 主日礼拝説教
「主よ。そのとおりです」(マルコの福音書7章24節〜30節)
■はじめに
これまでのイエス様の活動は、ガリラヤ地方、ガリラヤ湖周辺が主でした。この時イエス様は、ガリラヤを離れて北に向かい、地中海沿岸に退かれました。それは、イエス様にとって休養と、これからの活動への準備のためでした。
5000人の給食の奇蹟のあとに起こったきよめ論争によって、パリサイ人との対立が激しくなってきました。イエス様は、それから一時的に逃れるため、あるいは神様の導きを求めて祈りたいという願いもあったでしょう。イエス様は、ユダヤ人から遠く離れて外国の地へやってきました。
■ツロの地方
24イエスは、そこを出てツロの地方へ行かれた。家に入られたとき、だれにも知られたくないと思われたが、隠れていることはできなかった。
イエス様がやってきたツロは、その北にあるシドンとともに、地中海沿岸にあったフェニキヤ人の住んでいた町でした。イエス様は、ある家に入ってひっそりとしておられました。そこに、汚れた霊につかれ、病んでいた幼い娘を持つ女の人がやって来ました。
■スロ・フェニキヤの女
25汚れた霊につかれた小さい娘のいる女が、イエスのことを聞きつけてすぐにやって来て、その足もとにひれ伏した。
どんな病もすぐにいやしてくださる方がこの地にいらっしゃった。そのことを聞きつけ、女の人はすぐにイエス様を尋ねて来ました。イエス様の名前は、ここ遠く離れた異邦の地にも伝わっていました。
子どもの病は重く、「汚れた霊につかれて」いました。それで、ここまで連れて来ることはできなかったのです。
26この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生まれであった。そして、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようにイエスに願い続けた。
この女の人は、「ギリシヤ人」と呼ばれています。このころ、ギリシヤ人ということばは、当時の公用語であった「ギリシヤ語を話す人」という意味でも用いられていました。
女の人はイエス様の足元にひれ伏し、イエス様に願い続けました。「私の娘から悪霊を追い出してください。」この女の人の真剣な願いは、「願い続けた」という表現に現れています。ところがイエス様は、この女の願いに反して、拒否のことばを投げかけます。
■小犬にはあげられない
27するとイエスは言われた。「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」
子どもはユダヤ人で、小犬はユダヤ人以外の異邦人のことです。パンはイエス様が与える祝福や恵みを象徴しています。ユダヤでは、律法を守らない、不道徳な生活をしている異邦人をさげすんで、犬と呼んでいました。イエス様は「小犬」と呼んで、「犬」よりやや和らげた表現を使いましたが、それでも侮辱的な表現には変わりありません。これは、全く女の人の願いを取り上げないかのように聞こえる答えでした。イエス様がこう言ったのは、この女の人に信仰を告白させるためでした。
福音はまず先に、ユダヤ人に与えられるものでした。イエス様は弟子たちに、十字架と復活のあと「あらゆる国の人たちに」福音を宣べ伝えるように命令されたのでした。
「小犬」と呼ばれた女の人はどうしたでしょう。
■パンくずをいただきます
28しかし、女は答えて言った。「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」
女の人は、「主よ。そのとおりです」、「自分はそういう者です」とイエス様のことばをそのまま受け入れました。「主よ」と言いました。異邦人の女の人が、ユダヤ人であるイエス様を自分の主として告白したのです。簡単なことばのようですが、マルコの福音書では、イエス様に向かって「主よ」と言っているのはここだけです。
続けて女の人は、「食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます」とことばを返しました。女の人は、自分がイエス様から言われた部外者としての立場を喜んで受け入れ、そのような者にも神様の恵みがあることを告白したのでした。私は、あなたの恵みを当然のようにして受ける資格があるとは思っておりません。あなたが私を顧みなければならない理由などありません、と。
でも、イエス様、子どもが食卓に着いて食事をします。その子どもが、食べながらパンくずをこぼすこともあるでしょう。もし食卓の下に小犬がいれば、それを喜んで食べるでしょう。犬は、パンくずを投げてもらうことさえあるのではありませんか。
イエス様、私はそのパンくずでよいのです。あなたがユダヤ人にまず十分な恵みを与えるために来られたことはわかりました。ただ、その恵みの余り物でよい。それが落ちて来たら、掃いて捨てるだけの「くず」をいただきます。あなたの恵みはあふれるほどあります。私はその余りでいいのです。それで十分なのです。それで娘はいやされます。私はそれを喜んでいただきますと。
29そこでイエスは言われた。「そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」
主イエス様は、母親が、ただイエス様の恵みだけに望みをかけていたことばを聞きました。イエス様はこのことばをお聞きになりたかったのでした。
「そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました」とおっしゃってくださいました。イエス様はそこに行きもせず、娘を連れて来なさいとも言わず、ただ約束のおことばを下さいました。この女の人はイエス様を信じました。イエス様があわれんでくださり、それで娘が治ることを確信したのです。
女の人は約束のことばを握って、信じて家に帰りました。はたして、イエス様の言われたとおり「その子は床の上に伏せっており、悪霊はもう出ていた」のです。
女の人はひたすらへりくだり、イエス様のみことばと、イエス様が下さる恵みを信じました。
■イエス様の恵みは十分にある
イエス様は私たちの救いのために来てくださいました。イエス様の恵みはあふれています。
コリント人への手紙第2、12:9「わたしの恵みは、あなたに十分である。」
この「スロ・フェニキヤ生まれの女」は、救いを求めて、恵みを求めてイエス様のところに来て、イエス様の胸元に飛び込んだのでした。それに対して、イエス様は恵みを注いでくださいました。それがイエス様のみこころでした。そうイエス様がなさりたかったのでした。
そのあふれ出た恵みを私たちも受けることができるのです。私たちは、そのように、イエス様に近づき、イエス様に信仰を告白して歩みたいと思います。またそのような恵みをイエス様からいただき、今ゆりのきキリスト教会で礼拝をと信仰を守り、喜んで生きている者たちです。
ローマ人への手紙5:2「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」
イエス様は、私たちを救うために十字架にかかってくださいました。「小犬」と呼ばれるような私たちひとりひとりのために、そのいのちをささげてくださいました。
イエス様の恵みは私たちの上にあふれています。そのあふれ出た恵みを私たちは受けることができるのです。どんなに救いから遠いように見えても、どんなに小さく、とるに足りないように思われても、私たちはこのように言うことができるのです。
「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます」と。
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