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2009年5月3日 主日礼拝説教
「はっきり話せるように」(マルコの福音書7章31節〜37節)
■はじめに
イエス様は、ツロで、スロ・フェニキヤ出身の女の娘、悪霊につかれた娘をいやしてくださいました。異邦人であったその女の人は、イエス様に対してすばらしい信仰を表明しました。「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」それは食卓から落ちたパンくずのような一見捨てられてしまうようなものでも、自分はいただきたい。イエス様の恵みはそれだけで十分です。それで自分の娘はいやされます、とイエス様に告げました。その信仰によって、娘はいやされました。
そこからイエス様と弟子たちは、また旅を続けました。
■デカポリス地方
31それから、イエスはツロの地方を去り、シドンを通って、もう一度、デカポリス地方のあたりのガリラヤ湖に来られた。
これはかなり大回りの旅です。イエス様はツロを去って、海沿いに北のシドンに向かい、それから戻り、ガリラヤ地方を通り過ぎて、ガリラヤ湖の向こう側(イエス様が活動の中心であったカペナウムの向こう側)のデカポリス地方に行かれました。
デカポリスは異邦人の地でしたが、多くのユダヤ人が住んでいました。5章1節で、イエス様がゲラサ人の地にいた男から悪霊が追い出されたいやしを見ました。男はくさりにつながれ、墓場に住んでいました。この男から悪霊が追い出され、その悪霊が豚に入って2000頭の豚が湖に飛び込んで死んでしまうという事件が起こりました。
その男は、いやされ正気に返ったあと、イエス様の弟子としてついていきたいと願いました。そのときイエス様は、「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい」(5:19)と命じられました。
「そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた」(5:20)のでした。ゲラサの男は、イエス様の言われたとおり、イエス様が自分にしてくださったことを証ししていたのでした。
それで、イエス様がデカポリスにやってきたという話を聞いて、多くの人が集まってきました。そこに一人の人が連れて来られました。
■耳が聞こえず、口のきけない人
32人々は、耳が聞こえず、口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださるよう、願った。
その人は、「耳が聞こえず、口のきけない人」でした。連れてきた人が家族か、友人かはわかりませんが、これは、2章1節のカペナウムであった中風の男が連れて来られた時の状況と似ています。その時は4人の友人が寝床ごと運んで来て、屋根からそれをつり下ろしました。
デカポリスの人々は、この男の上に手を置いてくださるように願いました。この人を見てください。この人の病に目をとめてください。手を置いて、あなたの力をもって、この病をいやしてください。その願いは、連れてきた人たちの、この男に対する愛と、イエス様ならいやしてくださるという信仰を伴っていたでしょう。
その願いをイエス様は聞いてくださいました。そのとき行ったイエス様のいやしの方法は、今までとは違っていました。
■エパタ
33そこで、イエスは、その人だけを群衆の中から連れ出し、その両耳に指を差し入れ、それからつばきをして、その人の舌にさわられた。
これらは、男の耳から聞こえなくしているものを取り除き、舌が動いて話し始めるようにという行為でした。おことばだけでも、この男はいやされるのに、イエス様はあえてこのようなことをなさいました。
この男は今まで、いろいろなところ(医者や魔術師)に連れていかれて治療を行っていたでしょう。あるいは、イエス様が行ったようなことをされたかもしれません。
この男はイエス様を見たとき、今までの医者や魔術師とは違ったお方と感じたでしょう。イエス様の動作は、この男に、いやしてくださるイエス様を感じさせるためでした。ああ、いま耳にさわっている。ああ舌にさわっている。この男は、そのイエス様の指を感じて、このお方はいやし主である、という信仰を与えられたのでした。
34そして、天を見上げ、深く嘆息して、その人に「エパタ」すなわち、「開け」と言われた。
イエス様は「天を見上げ」、父なる神様に祈りました。「深く嘆息し」は、この男に対するあわれみと同情を示すものでした。そして「エパタ」(開け)と言われました。イエス様の権威あるおことばでした。
12歳の少女に言ったことば、「タリタ、クミ」(5:41)を思い出します。イエス様は通常、ギリシヤ語を話されていたと考えられています。しかし、子供のころは、家庭でアラム語と呼ばれる話しことばを使っていたと言われています。
このときの「エパタ」は、男にとって最も身近なことばであったでしょう。イエス様の指が耳に入れられた時、この男のいやしが始まっていました。そして、この力強い「エパタ」の声がこの男に届きました。
35すると彼の耳が開き、舌のもつれもすぐに解け、はっきりと話せるようになった。
この男は耳が聞こえ話せるようになりました。同時に、この男の心も開かれました。体のいやしだけではなく、たましいもいやされました。これがイエス様のいやしの目的でした。
36イエスは、このことをだれにも言ってはならない、と命じられたが、彼らは口止めされればされるほど、かえって言いふらした。
イエス様は、このことをだれにも言ってはならないと命じられました。それは単に奇蹟を行う者としての評判が高まることを望んでいなかったからでした。しかし、口止めされればされるほど、この男と連れて来た男たちは、イエス様への感謝と賛美、そしてこの奇蹟を言い広めたのでした。
■神であることのしるし
37人々は非常に驚いて言った。「この方のなさったことは、みなすばらしい。耳の聞こえない者を聞こえるようにし、口のきけない者を話せるようにされた。」
彼らが言ったこれらのことばは、知らず知らず、イエス様が神であることを示しました。「この方のなさったことは、みなすばらしい。」これは、神様が創造のわざを終えられたときのことばでした。
創世記1:31「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。」
民衆の賛美は、イエス様のなさったことが創造のわざと同じであったことを語りました。
もう一つは、イエス様が「耳の聞こえない者を聞こえるようにし、口のきけない者を話せるようにされた」ということです。このことばはイザヤ書に出てきます。
イザヤ書35:5-6「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。」
イザヤは、神の国が実現したときに、それは救い主が現れた時、そして世の終わりの時にこのようなしるしが伴うと預言しました。いまイエス様によって、この地上に神の国が実現したのでした。
■十字架
イエス様は、このときつばきをつかっていやしをなさいました。つばきをつけるという行為は、イエス様のあわれみと愛の行為の表現でした。わたしの力と愛をあなたに与えるということをつばきをとおして示された。
しかし、つばきは、その人への侮辱を現す行為ともなります。
ヨブ記17:6「神は私を民の物笑いとされた。私は顔につばきをかけられる者となった。」
イエス様は十字架につけられる前、兵士たちからそのような行為を受けられました。
マルコ15:19「(兵士たちは)また、葦の棒でイエスの頭をたたいたり、つばきをかけたり、ひざまずいて拝んだりしていた。」
デカポリスの人々に、神様が今ここに来てくださったと賛美されたイエス様が、十字架への道を歩まれ、私たちの罪を負って十字架でいのちをささげてくださいました。
私たちも、かつては、この男のように「耳が聞こえず、口のきけない人」のようでした。私たちの心は罪によって曇らされ、何が正しいか、どう歩んだらよいかわからない者でした。しかし今や、イエス様の十字架を信じることによって、私たちの罪によって曇らされていた心が開かれました。そのことを今日も感謝し、賛美したいと思います。
かつては 罪のため 心は曇りて
迷いしが 今は目も 全く開きたり
われ知る かつては 目見えざりしが
目を開かれ 神をほむ 今はかくも(新聖歌358番)
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