ゆりのきキリスト教会>テキスト>礼拝説教2009年5月17日
2009年5月17日 主日礼拝説教
「はっきり見える」(マルコの福音書8章22節〜26節)
■はじめに
ダルマヌタ地方でイエス様は、パリサイ人たちから「天からのしるし」を求められました。そのあとイエス様と弟子たちは舟に乗り、ベツサイダに向かわれました。舟の中で、イエス様からパリサイ人のパン種に気をつけるようにと言われた弟子たちは、その意味が理解できませんでした。今日は、舟がベツサイダに到着したところから始まります。
■木が歩いているように見える
22彼らはベツサイダに着いた。すると人々が盲人を連れて来て、彼にさわってくださるよう、イエスに願った。
ベツサイダに着いたイエス様のところに、一人の盲人が連れて来られました。この男は、イエス様に対して、まだはっきりした信仰を持っていなかったと思われます。それでイエス様は、今回の奇蹟をいつもとは違った方法で行われました。
23イエスは盲人の手を取って村の外に連れて行かれた。そしてその両目につばきをつけ、両手を彼に当てて「何か見えるか」と聞かれた。
イエス様は、盲人の手を取って群衆から離れ、村の外に連れ出しました。特に、この男には、イエス様の語ることを理解させ、イエス様が救い主、いやし主であるという信仰を持たせる必要があったからでした。
イエス様は男の両目につばきをつけられました。つばきは、デカポリスにいた、口が聞こえず耳が聞こえない男のいやしの時にも用いました(7:32)。イエス様のいやしの方法はさまざまです。それは、いやされる人の信仰にふさわしい方法がとられたからでした。
奇蹟の途中で、イエス様が声をかけられました。イエス様は「何か見えるか」と問われました。しかし、彼のイエス様に対する信仰はおぼろでした。それで、瞬時に完全には見えなかったのです。
24すると彼は、見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」と言った。
男はイエス様にいやされ見えるようになりましたが、ぼんやりしていました。しかし彼の声は、見えた興奮にあふれていました。立て続けにイエス様に言います。「人が見えます。木のように見えます。動いているのが見えます。」彼には、人だか木だかよくわからないが、それが歩いているように見えたのでした。
■はっきり見えるようになる
男のいやしは不十分でした。それは、この男の信仰の不十分さのゆえであったと思われます。さらに完全にいやされる必要がありました。そうイエス様は願われ、もう一度両目に手をあてられました。
25それから、イエスはもう一度彼の両目に両手を当てられた。そして、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった。
イエス様のことばに男は、今度はイエス様に信頼して見つめました。「見つめていると」は、「見つめ続けていると」ということばです。いやしは徐々に起こりました。ここに彼の信仰がだんだんと確かなものにされていったことが読み取れます。
見えなかった目はすっかり治りました。男の目は全く開かれたのでした。
26そこでイエスは、彼を家に帰し、「村に入って行かないように」と言われた。
この時も、イエス様は奇蹟を行う者としての評判がたつのを望みませんでした。
■弟子たちへの訓練
弟子たちは、この時、瞬時にいやされなかった奇蹟を初めて目撃します。これまでは、楽々とイエス様のいやしがなされていくと弟子たちは思っていました。ところが、今度はそうはいきませんでした。だんだんといやされていく様子を通して、信仰の大切さと、信仰がなければいやされないことを教えられました。
弟子たちは、5000人のパンの奇蹟以降、イエス様を理解できず、またイエス様からの叱責の連続でした。5000人のパンの奇蹟のあとで、イエス様は、イエス様を王にしようとする群衆の混乱を避けるため、強いて弟子たちを舟に乗せて、ベツサイダに向かわせました。弟子たちが乗った舟は突然の嵐にあいました。何時間も漕ぎあぐねていたところへ真夜中になって、イエス様が歩いて湖を渡って来られました。弟子たちは、ガリラヤ湖を歩いて来られたイエス様を幽霊と思ってしまいました。「というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである」(6:52)とあります。
パリサイ人たちから、きよめについての言い伝えを守らないことをイエス様が問われた時です。パリサイ人が帰ったあと、イエス様は弟子たちに「あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人に入って来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか」(7:18)と言われました。
4000人のパンの奇蹟の時も心が鈍くなっていました。「こんなへんぴな所で、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができましょう」(8:4)と答えました。
そのあと、舟の上でパリサイ人のパン種に気をつけるようにと言われたとき、弟子たちはその意味を理解できず、パンがないことに心がいってしまいました。イエス様がいてくださるという信仰があれば、そんなことは何も心配する必要がないことを理解できなかったのです。弟子たちは、「目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか」(8:18)と言われてしまいました。
スロ・フェニキヤの女の信仰(7:28)と、今日のベツサイダの盲人のいやしの奇蹟は、弟子たちにもう一度、信仰の大切さをイエス様から教えられた出来事でした。
■私たちの信仰
私たちの信仰はどうでしょうか。私たちも、イエス様によって見えない目に触れられています。触れられていたと言ってもいいでしょう。私たちは、かつては神様を知らずに生きてきた者たちでした。それが、イエス様のほうで、私たちに神様の愛を知るようにと私たちの目に触れてくださいました。
主イエス様が世に来られたのは、十字架によって私たちの罪を赦してくださるためでした。そして、そのことを信じた者に、永遠のいのちを与えるためでした。
ヨハネの福音書5:24「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」
ヨハネの福音書17:3「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」
みことばによって、祈りによって、そして聖霊の働きによって、私たちは、今もイエス様が触れ続けてくださっていることを覚えることができるのです。私たちは、しっかりと見続けたときに、木が歩いているような不確かではなく、はっきりと人が歩いているように見ることができるのです。
そのような信仰の歩みを、そのような体験を、お一人お一人ができますようにと祈ります。そのように神様がしてくださることを信じてこれからも歩みたいと思います。
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