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2009年5月31日 主日礼拝説教
「自分の十字架を負って」(マルコの福音書8章34節〜38節)
■はじめに
先回はイエス様が弟子たちに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」とお尋ねになった時に、ペテロが「あなたはキリストです」、「あなた様こそ神の御子、キリストです」と答えました。そしてイエス様は、そのことをだれにも話さないようにと戒め、お命じになってから、初めて自分にこれからどういうことが起こるのか、そして自分が何をするために来られたのかを明らかにされたのでした。
8章31節「それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。」
そして、そのあとに続けてイエス様は、イエス様に従うこととはどういうことかを話し始めました。
■自分を捨ててついて来なさい
34それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
イエス様は、「群衆たちもいっしょに呼び寄せて」言われました。これは、特別な人や指導者だけではない。すべて「イエス様について行きたいと思う人なら」「イエス様の弟子になりたいのであれば」、その人は「自分を捨て」なさいと言うのです。
「自分を捨てる」とは、自己中心の歩みや、自分中心の考えを捨てることでしょう。イエス様は、そのように「自分を捨て」、「自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」とおっしゃいました。
■自分の十字架を負う
十字架に処せられることになった者は、罪状書きをぶらさげ、刑場まで自分の十字架を負って、見せ物となりながら歩いて行かなければなりませんでした。「自分の十字架を負う」とは、そういうことです。
イエス様は私たちに対して、そのように「あなたの十字架」を負いなさいと語っているのです。だれか、ほかの人の十字架ではない、あなた自身の十字架がある。それを負ってわたしについて来なさい、従いなさいと語られました。
そのような、私たち一人一人の、自分の十字架とは一体何でしょうか。その十字架は、一人一人、めいめい違っているでしょう。しかし違っていると言っても、それはイエス様とは無縁のものではありません。イエス様を信じ、信仰生活を送っていく上で、一人一人が主イエス様から示され、託され、負うようにと求められているものです。
福音書が書かれた当時は、文字通り、主イエス様を信じたというだけでいのちを捨てる、十字架にかけられるということがありました。たいへん厳しい時代でした。
日本の豊臣時代、江戸時代にもそのようなことが起こりました。先の第二次世界大戦の時にも、日本のクリスチャンは迫害を受けました。
今の私たちはどうでしょうか。今は、幸いにしてそのようなことはなくなりました。しかし、私たちがクリスチャンになったことによって、何らかの不自由さを感じたり、あるいは苦しい思いが生じることがあるかもしれません。それでもイエス様についていく。日々の生活の中で、日常生活で神様を第一にする生活をする。それが、「自分の十字架を負い」、そしてイエス様についていくことではないかと思うのです。
■いのちを救う
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」このことばに、厳しさを感じるでしょうか。そうではなく、このことばには、イエス様の深い愛がこめられているのです。
35いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。
「いのちを救おうと思う者」、それは自分を大事に思い十字架を負ってイエス様に従うことをやめてしまう者です。そのような者は、その「いのちを失う」ことになります。しかしイエス様と福音のために「いのちを失う者」は、たといそのようなことがあっても、十字架を追い続ける者は「いのちを救う」ことになると言われます。
それは、イエス様のためにいのちを失うことになる魂に対する、イエス様の愛のことばであります。
その「いのちを救う」と言われている「いのち」とは、イエス様が約束してくださっている「永遠のいのち」です。「永遠のいのち」とは、死後に与えられる約束のいのちだけではありません。イエス様を救い主として信じた今、私たちに与えてくださった喜びのいのちです。
イエス様は、さらに言われました。
36人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。37自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。
「たとい全世界を得ても、いのちを損じたら」、世界中にあるものをすべて自分のものにすることができても、いのちを失い、永遠に死ぬことになるとしたら、それが何になるでしょう。何をもってしても買い戻すことはできないのです。
■再臨の時の報い
最後にイエス様は、もう一度おいでになること、再臨のことについて触れられます。
38このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」
イエス様は、今は天におられますが、もう一度この世界にやって来られます。「(イエス様が)父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来る」、そのときには、「イエス様とイエス様のことばを恥じるような者」「日々自分の十字架を負う」ことをしなかった人を、「そのような人のことを恥じます」と言うのです。
私たちは、そのとき、自分の十字架を確かに負い続けたかどうかをイエス様に問われます。そして「日々自分の十字架を負い続けた」者に、神様を第一として歩んだ者にイエス様は報いを与えてくださるのです。
コリント人への手紙第2、5章9−10節「そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」
「主に喜ばれること」、それはイエス様がおっしゃった、自分のいのちある限り「自分の十字架を負い、神様を第一としてイエス様について行く」ことです。それに対して神様は報いを与えてくださるのです。
■弟子たちの歩み
はたして弟子たちは、このあと「自分の十字架を負う」ことを実行できたでしょうか。弟子たちは、自分を捨てるどころか、だれが一番えらいのか、天国ではだれがイエス様の隣に座ることができるのか、と言い争うのです。
ペテロは、自分を捨てるのではなく、イエス様を捨てました。ペテロは3度「イエス様を知らない」と、否定してしまったのでした。イエス様はペテロの弱さをご存知で、ペテロに、あなたはわたしのことを3度知らないと言う、とおっしゃいました。イエス様は、そのようにペテロや弟子たちの弱さを何もかもご存知で、「自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」と、おっしゃったのでした。イエス様の十字架の死は、自分を捨てられない。そのような者たちが持っている罪を赦すためであったからでした。
イエス様は復活後、ガリラヤ湖の湖畔で、ペテロにお会いになりました。イエス様は、3度「ペテロ、あなたはわたしを愛しますか」と問うてくださいました。ペテロは3度「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです」と答えました。そしてイエス様は「わたしの羊を飼いなさい」とペテロに新しい使命を与えてくださいました。ペテロにもう一度、自分の十字架を負ってついて来なさいとおっしゃったのでした。
そのときペテロは、イエス様が「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならない」と言われたことばが、自分の罪のためであったことを、そして「自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」と言われたことが、何度でも赦される愛と恵みに満ちたことばであったことを知ったのでした。
■主に従う歩み
きょう私たちは、ペテロや弟子たちに、「自分の十字架を負い、わたしについて来なさい」と声をかけてくださったイエス様のおことばを聞きました。それは、私たち一人一人への招きのことばです。
私たちも、「神の国」と「永遠のいのち」を望みつつ、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、イエス様について行きたいと思います。
私たちは、このお方に、どこまでも従って歩んでいきたいのです。小さな信仰であるけれども、弱く、失敗だらけの者であるけれども、イエス様が何度でも赦してくださるので、それができるのです。
イエス様が「ついて来なさい」と言ってくださるので、私は「イエス様について行きたい」と、そのように願うのです。
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