ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2009年6月7日


2009年6月7日 主日礼拝説教
「私の愛する子」(マルコの福音書9章1節〜13節)

■はじめに
 ここは山上の変貌(山の上でイエス様が栄光の姿に変わった)と言われているところです。ペテロたちは、イエス様を「あなたは、キリストです」と告白できましたが、イエス様は、イエス様の本当の姿である栄光のお姿を弟子たちにはっきりと見せておく必要がありました。そのためにペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人を選んで、山に登られました。
 イエス様は、マリヤの子としてお生まれになりました。イエス様は、まことの人としてお生まれになりました。しかしイエス様は、神の子でもあられました。イエス様は、その神としてのお姿を捨てて、この地上においでになられたのでした。
 イエス様の姿が栄光のお姿に変わったということは、そのキリストの本来のお姿、神であられるお姿を、弟子たちに垣間見させた出来事だったのでした。

1イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。」

 1節から9章に入っていますが、この節は前の段落に続いています。2節から新しい段落が始まります。
 イエス様は、ここにいる弟子たちのだれかが「神の国が力をもって到来しているのを見るまでは」死なないとおっしゃいました。「神の国が力をもって到来する」とは、もう一度イエス様がやってくる時ではありません。イエス様と共にいた弟子たちは、みな死んでしまったからです。
 それで、ここは、イエス様が十字架にかかり、よみがえる時は間もなくやってくることを、このような言い方でおっしゃったのでした。

■山に登る

2それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。3その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。

 山の上で、ルカの福音書9章によると祈っていた時でした。三人の弟子が見ている前で、突然、イエス様のお姿が変わっていきました。

4また、エリヤが、モーセとともに現れ、彼らはイエスと語り合っていた。

 モーセは、神様から十戒をはじめとする律法を与えられ、旧約聖書の最初の五つの書(創世記〜申命記)に深くかかわっています。モーセは、律法の代表者でした。一方のエリヤは、旧約聖書を代表する預言者でした。つまり、この時、旧約聖書の律法と預言者を代表する二人の人物がイエス様のもとに現れたのです。

■話し合っていたこと
 三人は何を話し合っていたのでしょうか。マルコ、マタイの福音書には出ていませんが、ルカの福音書には「イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していた」(ルカ9:31)とあります。イエス様の十字架についてでした。
 この「最期」は、出エジプトを意味する「エクソドス」(脱出、出発)ということばが使われています。イエス様の十字架は「エクソドス」であったのでした。
 モーセに率いられて出エジプトを敢行する最後の晩、イスラエルの人々は神様から、小羊の血を入り口の門とかもいに塗るように言われました。神様のさばきがエジプトに下った時、犠牲にされた小羊の血を塗ったイスラエルの家は過ぎ越され、さばきから免れました。
 イエス様は、その時の小羊と同じように、犠牲となるために十字架の道を歩み抜こうとしておられました。エルサレムで遂げようとしている十字架こそエクソドス、罪のさばきからの脱出、罪の身代わりの死であり、モーセが律法によって、またエリヤたち預言者が語り続けてきた救い主はこのイエス様であることを、イエス様とモーセとエリヤは話していたのでした。
 このとき、ペテロたち三人は、すばらしい世界にいるという現実に、ただ酔いしれ、恐ろしくなりました。

5すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」

 この時ペテロは、モーセによって神の幕屋が完成したときに、その幕屋に神様の栄光に満ちたという出エジプト記の出来事を思い出したのではないかと思うのです。しかし、このとっさにしたペテロの提案は見当はずれでした。「実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかった」(6節)のでした。

■天からの声

7そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。

 山上の世界は、「わき起こってきた雲」によって、弟子たちの視界からさえぎられてしまいました。そして雲の中から声がありました。「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」
 このことばは、イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時に、天から神様が語られたことばを思い起こさせます。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」(1:11)。
 イエス様の洗礼の時は、これから宣教に出ていくイエス様のために語られ、イエス様だけが聞いたことばでした。そして、山上の変貌の時は3人の弟子たちに語られました。
ペテロが「あなたは、キリストです」と言ったことばを、神様のほうで「これは、わたしの愛する子である」と証言してくださったのでした。そして神様は、この「愛するわたしの子」に聞くようにと言われました。

■山を降りる
 イエス様たちは山から降りました。

9さて、山を降りながら、イエスは彼らに、人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見たことをだれにも話してはならない、と特に命じられた。10そこで彼らは、そのおことばを心に堅く留め、死人の中からよみがえると言われたことはどういう意味かを論じ合った。

 彼らは、イエス様の言われたとおり、ほかの9人の弟子たちにも沈黙を守りました。しかし彼らは、イエス様がよみがえることとはどういうことか理解できず、互いに論じ合っていたのです。
 彼らは、エリヤについてイエス様に尋ねました。

11彼らはイエスに尋ねて言った。「律法学者たちは、まずエリヤが来るはずだと言っていますが、それはなぜでしょうか。」

 それはマラキ書などに預言されていたことでした。
 イエス様は、エリヤはもうやってきたこと、エリヤはバプテスマのヨハネであったことを話されました。しかし律法学者たちは、バプテスマのヨハネをエリヤとは認めませんでした。したがって、ヨハネが指し示したイエス様もメシヤとは認めなかったのです。
 しかしメシヤである人の子は、多くの苦しみを受け、さげすまれると預言されていました。そのようにしてメシヤは律法学者たちに殺されていくことを3人の弟子たちに明らかにされたのです。

■イエス様に聞く
 「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」天からの神様の声、弟子たちに語った声でした。
 私たちは、神様の私たちに対する愛を知り、イエス様の十字架が自分の罪のためであったことを信じ、神様、イエス様に従い通す決心をしました。どこまでもイエス様についていく。神様を第一としていく決心をしました。
 これからは、イエス様の言うことを聞きなさい、従って行きなさいと、天から神様が弟子たちに、そして私たちに語ったのでした。
 この山上の変貌の時のことをだれにも言わなかったペテロは、後に彼の手紙の中で、この時の様子をこう書きました。

ペテロの手紙第2、1:17−18「キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。『これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。』私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。」

 ペテロは、私は主イエス様の栄光のお姿を見ることができた。そして、神様からのおことばを聞くことができたと語りました。
 それは、復活されたイエス様の栄光のお姿でした。ペテロは、その祝福に支えられて、生涯を主と共に歩み通すことができました。
 私たちも今日、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」というおことばに励まされて、またイエス様とともに歩む喜びにあふれて、歩み出したいと思います。このあとの聖餐式をとおして、イエス様の十字架が罪の赦しであったことを覚え、そして、御国で与えられる永遠のいのちを信じて歩み続けたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2009年6月7日