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2009年6月14日 主日礼拝説教
「信じる者には、どんなことでもできるのです」(マルコの福音書9章14節〜29節)
■山を降りる
イエス様はペテロ、ヤコブ、ヨハネをつれて高い山に登られました。そこで弟子たちは、「イエス様の変貌」と言われている出来事を目撃します。イエス様が栄光のお姿に変わり、そこへモーセとエリヤが現れ、エルサレムで遂げようとしているイエス様の最期について語り合ったのでした。
そこから山を下り、待っていた弟子たちのところに帰ったときに起こった出来事が、今日の所になります。
14さて、彼らが、弟子たちのところに帰って来て、見ると、その回りに大ぜいの人の群れがおり、また、律法学者たちが弟子たちと論じ合っていた。15そしてすぐ、群衆はみな、イエスを見ると驚き、走り寄って来て、あいさつをした。
弟子たちが大勢の群衆に囲まれ、律法学者から議論をしむけられ、何も答えられないで困っていました。群衆は、帰ってきたイエス様たち一行を迎えると、驚き、挨拶したとあります。どこに行ったのかわからなかったイエス様がようやくこの時に姿を現してくださった、という思いであったでしょう。そこでイエス様は、群衆たちに何があったのか質問されました。
■息子を連れた父親
群衆の一人、息子を連れた父親が答えました。
17すると群衆のひとりが、イエスに答えて言った。「先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、先生のところに連れて来ました。18その霊が息子にとりつくと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。それでお弟子たちに、霊を追い出すよう願ったのですが、できませんでした。」
その息子が置かれている状況は大変なことでした。息子は口がきけなくなり、その原因となっている悪い霊によって押し倒され、「あわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせる」のです。
父親はイエス様の評判を聞き、イエス様のもとに息子をつれてやってきましたが、イエス様は山に登られていて、そこにはいませんでした。そこで父親は、弟子たちに息子を見せ、治してほしいと願いました。ところが、どうしても弟子たちにはその子を治せなかったので、騒ぎが大きくなりました。
そこには、日ごろイエス様のことを快く思っていなかった律法学者もいました。律法学者にとっては反撃するチャンスだったでしょう。そこにイエス様が戻ってこられたのでした。
19イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
イエス様は、この状況をごらんになって深く嘆かれました。この世の不信仰、群衆の不信仰、弟子たちの不信仰を嘆かれました。しかしイエス様は、その不信仰を嘆きながらも、あわれみをもって、その子をみもとに連れて来るようにおっしゃいました。
20そこで、人々はイエスのところにその子を連れて来た。その子がイエスを見ると、霊はすぐに彼をひきつけさせたので、彼は地面に倒れ、あわを吹きながら、ころげ回った。
イエス様を見ると、その子を支配していた霊が突然あばれだしました。そこで、イエス様は父親に尋ねられました。「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか」と。父親は「幼い時からです」と答えました。発作が起きると手のつけられない状態に陥り、火の中や水の中に倒れてしまうこともありました。
■イエス様と父親との信仰問答
子どもの症状を説明して、父親は「ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください」(22節)とイエス様に願いました。この願いは、父親の長いつらい経験から出てきた叫びでした。今まであらゆる手段を講じてきましたが、いつも裏切られ、そのたびに悲しみを経験してきたでしょう。最後の望みはイエス様だけでした。
だがイエス様は、すぐに父親の「もし、おできになるものなら」ということばを引き取って言われました。
23するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
そう言われて父親は間髪を入れずに答えました。
24するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
父親は、「信じます」と言ったものの、自分を顧みると不信仰でいっぱいな者であることがわかっていました。「しかし私には、もうあなたしかいないのです。」父親は、イエス様に自分のありのままを投げ出し、あわれみにすがりました。「こんな不信仰な私ですけど、助けてください」と。これが父親の信仰でした。イエス様はこの父親の信仰のことばを受け入れてくださいました。
「できるものなら、と言うのか」というイエス様のおことばは、父親を信仰に招くことばでした。イエス様は、その人の状況をわかってくださり信仰へと導いてくださいます。イエス様は、その人の苦しみ、悲しみ、悩みを知ってくださり、すべてを受け入れてくださるのです。
信じるとは、この父親にとってすべてをイエス様にゆだねることでした。不信仰な心、信じきれない心をも、そのままでイエス様にゆだねてしまうことでした。不信仰なままで、自分をイエス様におゆだねしてしまう。信仰とはこういうものである、ということを教えられます。
■子どもがいやされる
父親の願いにイエス様は答えられました。イエス様は、駆けつけた群衆を前にして、汚れた霊に命じました。「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな」(25節)。
イエス様と霊との戦いは激しく、その子どもは二つの力に引き裂かれて、「死人のように」なりました。イエス様が手をとって起こされると、その子どもは立ち上がり、いやされました。
■祈りによらなければ
このあとです。群衆が解散し、イエス様たちが家に入った時、弟子たちはイエス様にそっと尋ねます。「どうして自分たちにはできなかったのでしょうか」と。
29すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」
弟子たちは、以前、イエス様に命じられて町々をめぐって、人々の病をいやした時も、祈ったに違いありません。そして、そのようにして病をいやし、悪霊を追い出したのでした。ですから、父親の願いを聞けば、弟子たちはすぐに祈ったはずです。ところが、その祈りはかなえられなかったのでした。
弟子たちは、自分たちに与えられた力や権威をよりどころとし、少し得意になって人の目を意識した祈りになっていたのかもしれません。そのような弟子たちの祈りに、イエス様は「この種のものは神様だけができることです。神様に助けを求めなさい」と弟子たちにいさめられたと思うのです。
この父親は、イエス様に「私たちをあわれんで、お助けください」と願いました。これは、自分のプライドを捨て、イエス様の前に出た人の祈りのことばでした。それは自分の無力さを知った人の叫びでした。
祈りとは、私たちが持っていると思う力が何の役にもたたないことを知り、神様に訴えることです。
私たちは、そのような祈りの姿勢と当時に、祈りの答えには「神様の時」があることを教えられます。この息子はいやされた時が神様の時でした。私たちに、神様に祈り願っていることがあるならば、神様の時を信じて、神様があえて今の状況にとどめておいてくださっていることも知り、そのことも感謝して、これからも祈り続けたいと思います。
ヨハネの手紙第15章14−15節「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」
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