ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2009年6月21日


2009年6月21日 主日礼拝説教
「幼子をわたしの名のゆえに受け入れる者」(マルコの福音書9章30節〜37節)

■はじめに
 今日の出来事は、イエス様の弟子として生き方を語っています。
 イエス様が弟子たちに、「わたしをだれだと言いますか」と質問され、ペテロが答えました。「あなたは、キリストです」と。この時から、イエス様の活動は、群衆に対するものから弟子を教育する活動へと移っていくのです。
 イエス様は、初めてご自分の使命を語られました。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日の後によみがえらねばならない」(8:31)と。続けてイエス様は、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(8:34)と語られました。
 それから6日目、イエス様が山に登り、変貌するという出来事がありました。そこには、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人がおともを許されました。その山からから降りてくると、悪霊につかれた息子を連れた父親が待っていました。弟子たちにはその子をいやすことができなかったのでした。イエス様がその父親の信仰を導き、息子の病をいやされたあと、イエス様はガリラヤム向かいました。

■2度目の受難予告

30さて、一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。イエスは、人に知られたくないと思われた。

 イエス様は、ご自分の地上生涯が残り半年ほどになったこの時、弟子たちだけに語ることを望まれ、弟子たちの教育と訓練を優先させました。それで、それまでは人々に囲まれていたガリラヤ地方にも、人目を避けて入られました。このような中、弟子たちに2回目の受難予告をなさいました。

31それは、イエスは弟子たちを教えて、「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる」と話しておられたからである。

 しかし弟子たちは、このことばを理解できませんでした。いや、その意味をイエス様に聞くことさえ、恐ろしくてできなかったのでした。弟子たちは、これからイエス様はどうなっていくのか、その不安でいっぱいだったでしょう。

■だれが一番偉いか
 イエス様は、ガリラヤでおもに活動しておられたカペナウムの町に入られました。

33カペナウムに着いた。イエスは、家に入った後、弟子たちに質問された。「道で何を論じ合っていたのですか。」34彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである。

 ガリラヤへの途中、弟子たちはだれが一番偉いかと論じ合っていました。人の上に立ちたい。なんとか競争に勝ちたいという思いがイエス様の12人の弟子の中にもあったのでした。
 彼らは、イエス様に従って寝起きを共にしながら2年は過ごしていました。その間、イエス様のなされること、語られることを見聞きするうちに、この方こそ「神の子、キリスト、救い主」と告白することができたのでした。しかし、そうは告白できても、彼らのキリスト理解は不十分であり違っていました。
 しかしイエス様は、これからエルサレムに向かおうとしておられます。弟子たちは、イエス様の教えておられるイエス様の国、神の国がだんだんと近づいていることは感じていました。そのイエス様の国で、自分はどのような地位に着くことができるのか、平等なのか、順番があるのか。あるなら、より高い地位につきたい、そう思っていました。神の国はすべての人が平等であるのに、彼らはそれを理解していなかったのでした。
 しかし、なんとなく弟子の中に序列ができてきたようでした。イエス様に「わたしをだれだと言いますか」と問われたときは、ペテロが率先して答えました。変貌の山に登ったのは、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子でした。
 彼らだけが目立つようになってきました。それが、ほかの弟子にはおもしろくなかったのでしょうか。彼らは、そのような思いを抱えながら旅をしていたのかもしれません。ですから、「だれが一番偉いか」というような議論が起きてきたのでした。
 悲しいことに、彼らの関心事は神の国の広がりではなく、またイエス様が捕らわれるかもしれないということではなく、自分の地位であったのでした。この議論はこれからも続き、10章では、ヤコブとヨハネ兄弟の母親がイエス様を訪ね、自分の子どもたちを神の国においてイエス様の右と左に座らせてほしいと願っています。また最後の晩餐の時にも、その議論を弟子たちがしているのでした。それほど「だれが一番偉いか」ということは、彼らにとって高い関心事の問題だったのでした。

■幼子を受け入れる
 イエス様は、弟子たちの思いを見抜かれて、座って話し始められました。弟子たちに大切なことを話そうとしたのです。イエス様は、だれがいちばん偉いかという議論を離れて、弟子としての生き方を話されました。

35だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」

 そして、近くに遊んでいた子どもを呼び寄せました。おそらく、3歳前後の子どもだったでしょうか。イエス様はその子を「抱き寄せて」言われました。

37 「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」

 「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる」者が私の弟子であり、またそういう者は、「わたしを遣わされた方を受け入れる」、つまり父なる神様を受け入れるのです、とおっしゃったのでした。
 この当時、幼子とは価値のないもの、代わりはいくらでもあるものという感じであったそうです。むしろ、邪魔な、うるさい者という存在が子どもでした。イエス様は、このような価値なき小さな存在である子どもを受け入れる者は、わたしを受け入れる者とおっしゃったのでした。
 名前はその人自身を表します。「ゆえに」ということばは、「根拠にして」という意味の前置詞です。ですから、幼子を「イエスの名のゆえに受け入れる」とは、あたかも幼子を、最も小さい者、価値のない者をイエス様であるかのように受け入れるということです。
 それが「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となる」ことでした。「だれが偉いかではない」、自らへりくだって、「みなのしんがりとなり、みなに仕える者となる」。それが「一番偉い者」「人の先に立ちたいと思う」者の生き方であると教えてくださったのでした。
 彼らは、イエス様に選ばれた直弟子として、新しく生まれようとしている教会に指導者になるのです。彼らは、しもべのように仕える者になることが必要でした。これが神の国で、教会で人の先に立つ者の生き方でした。

■仕える者の姿
 「仕える者、しもべの姿」を最も示そうとされたお方が、これからエルサレムに向かって歩もうとしているイエス様でした。イエス様こそが「みなのしんがりとなり、みなに仕える者と」なってくださいました。その道の行き着く十字架の死を、私たちの愚かさのために代わって受けてくださったのです。

マルコの福音書10:45「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

 イエス様は、すべての者の友となってくださり、小さい者、貧しい者、罪深い者を受け入れてくださいました。私たちはその十字架によって救われたのであり、その恵みにあずかっている者たちです。

■私たちも仕える者に
 そのような「仕える生き方」「幼子を受け入れる生き方」を私たちにも問いかけておられます。
 そうは言っても、そのようにできない私たちです。自らの不足、かたくなさ、愚かさを率直に認める私たちです。私たちは、そのことをイエス様に申し上げイエス様を見上げるしかできない者たちであります。
 そのような者たちではありますが、イエス様は今日、私たちにイエス様の生き方を示してくださいました。私たちはそう歩みたいと思います。
 私たちは「幼子をイエス様の名のゆえに受け入れる」ことはできないけれど、私たちは「みなに仕える者」となることはできないけれど、イエス様自らがそれをしてくださり、そうなってくださったことを覚えて、歩みたいと思います。
 イエス様が、このような私たちを愛し、神の子としてくださった恵みを感謝して、イエス様を見上げて歩みたいと思うのです。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2009年6月21日