ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2009年6月28日


2009年6月28日 主日礼拝説教
「反対しない者は味方です」(マルコの福音書9章38節〜41節)

■はじめに
 イエス様はこれまでに2度、ご自分が十字架にかかることを弟子たちにお話しなさいました。しかし弟子たちは、そのことが何のことかわからず、その意味を聞くことさえ恐ろしかったのでした。
 そんなことより弟子たちは、だれが一番偉いかの議論に夢中でした。それに対して、イエス様は、弟子として歩む道はどうあるべきかをお話しになりました。そのあとのことになります。

■私たちの仲間ではないのでやめさせました
 ヨハネがイエス様に言いました。

38ヨハネがイエスに言った。「先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。」

 雷の子と言われたヨハネです。彼は、思ったことをすぐに口に出してしまったのでしょう。この発言は12弟子全体の思いであって、代表してヨハネが言ったのかもしれません。ヨハネは年をとって、愛の人と言われる人になりますが、このような他人を排斥し、非難するような狭い考えを持っていたのでした。
 イエス様は、今までたくさんの人にお話ししてきました。個人的に話を聞きに来た人もいました。奇蹟によって、病をいやされた人たちもたくさんいました。その人たちの中に、公にイエス様についていかないまでも、個人的にイエス様を信じた人たちがたくさんいたと思います。そのような人が、病に苦しんでいる人を前にして、イエス様の名によって悪霊を追い出し、病をいやしていたのでした。
 しかしヨハネは、その人は「私たちの仲間ではないので」それをやめさせたとイエス様に報告したのでした。
 私たち12弟子は悪霊を追い出すことが許されている。それは私たち直弟子だけに与えられた特権だと、ヨハネは思ったからでした。確かに、12弟子が2人ずつ組になって伝道に遣わされた時、「十二弟子を呼び、ふたりずつ遣わし始め、彼らに汚れた霊を追い出す権威をお与えになった」(6:7)のでした。

■反対しない者は味方です。

39しかし、イエスは言われた。「やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行いながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。40わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。

 ヨハネたちは、「だれが一番偉いか」の議論をしていました。イエス様は幼子を抱き寄せ、「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです」と、弟子たる者は謙遜の思い、仕える者となるようにと教えられました。それに反するようなヨハネの訴えでした。ヨハネたちには、悪霊を追い出す特権を自分たちのみにしておきたかったのでした。
 ねたみもあったかもしれません。イエス様が山に登り、栄光の姿に変わられた時、待っていた弟子たちは、悪霊を追い出すことができませんでした。それだから、なおさら「私たちの仲間ではないので」許せないという思いがあったのでしょう。
 しかし、イエス様は「やめさせることはありません」とおっしゃいました。自分の仲間ではないから排除するという考えは、間もなくイエス様が十字架にかかり、復活されてから残された弟子たちによって生まれ出る教会にとって大きな問題でした。その教会が「自分の仲間ではないから」と考えていたら、あれほど教会は爆発的に広がっていかなかったでしょう。
 イエス様がそこまで見通していたための弟子たちへの教えであったと思います。イエス様の名によって「力あるわざを行う」者は、イエス様を慕う者であって、イエス様の敵となったり、イエス様のことを悪く言う者であるはずがありません。イエス様は、キリストの弟子は「私たちだけが」という思いを取り払って、寛容な心を持ち、イエス様の御名が広められていくことを喜びとするように教えられたのでした。

■水1ぱいでも飲ませる者
 さらにイエス様は教えられました。

41あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。

 水を飲ませことは、ユダヤの地に住む者にとって、旅人に対してだれもがしなければならない当たり前の奉仕でした。イエス様は、キリストの弟子にそのような水一杯を飲ませるという当たり前の小さなわざであっても、神様は覚えてくださると教えられたのです。しかもイエス様は、「決して報いを失うことはありません。これは確かなことです」と約束してくださいました。
 報いとは、施したという善き行いのゆえに与えられる報酬ではありません。天国での序列を決めるものでもありません。私たちは、何の報酬も受けるに値しない者です。

ルカの福音書17:10「自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」」

 そのような者のために、イエス様はすべてのすべてを与えてくださいました。私たちを愛してくださり、十字架でご自分のいのちを私たちに与えてくださり、私たちを神の子どもの身分にしてくださいました。それだから、私たちの「たとえ水1ぱいを飲ませる」という行いも、イエス様が愛し、イエス様が救ってくださった者がした行いということで、神様がイエス様をとおして受け入れてくださるのです。
 神様が私たちのしたことを覚えてくださる。そして、受け入れてくださる。それがイエス様のおっしゃっている「確かな報い」の意味です。
 私たちは、今日も、私たちがキリストの十字架によって罪を赦されたこと。そして、キリストのゆえに、私たちの小さな、不十分なわざも覚えられ、受け入れられること。そして、さらに感謝ことに、そのよい行いをするために、キリスト・イエスにあって造られたことを覚えたいと思います。

エペソ人への手紙2:10「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」

 そのように、神様が備えてくださった二重三重の喜びを覚え、感謝したいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2009年6月28日