ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2009年7月5日


2009年7月5日 主日礼拝説教
「自分自身のうちに塩けを保つ」(マルコの福音書9章42節〜50節)

■小さい者につまずきを与える
 今日の箇所は、ことばの連想によって次々と展開していく内容になっています。37節の「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです」の「幼子、小さい者」から始まり、「小さい者につまずきを与える」と続きます。

42また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。

 信仰を持ちながら小さい者をつまずかせることは、恐ろしい罪というのです。小さい者とは、幼子ではなく信仰を持って間もない人です。パウロはそのような人を「信仰の弱い人」と呼んでいます。

ローマ人への手紙14:1「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。」

 「石臼」とは、欄外注にあるように、粉にするためにロバに引かせて回転させる大きな石です。小さい者をつまずかせる者は、石臼を首に結わえつけられて海に投げ込まれたほうがましだというのです。
 イエス様は、それほどに小さき者を大切にしておられたからです。イエス様は、そのような小さな者を救いに選ばれ、ご自身のいのちをささげてくださいました。

■自分をつまずかせるもの
 人をつまずかせることから連想して、「自分をつまずかせること」につながります。

43もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片手でいのちに入るほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。…45もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちに入るほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。…47もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国に入るほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。

 44、46節は、有力な写本にはないので、書き写す段階で付け加えられたと言われています。
 43、45節の「いのちに入る」、47節の「神の国に入る」ことと比較するなら、手足や目を失うような犠牲も大きすぎることはないというのです。手、足、目は、人間にとって大切な部分ですが、それを通して誘惑が入ってきます。その片方が罪を犯すなら、それを切って捨てなさい。体の一部を切ってでも、「永遠のいのち、神の国」に入るほうが大切だと言うのです。
 これは比喩なので、実際に神の国に入れるために、文字どおりそうするように言われているわけではありません。そのように行わせるものは、自分自身の心です。信仰をもった者、救いを受け入れた者は、このような思いをもって歩むように言われています。
 「ゲヘナに投げ入れられる。」ゲヘナとは、ヘブル語「ゲー・ヒノム」(ヒノムの谷)から出たことばで、ギリシヤ語表記そのままです。新共同訳では「地獄」と訳しています。ヒノムの谷はエルサレムの南にあり、エルサレムのごみ処理場でした。それで絶えず火が燃えていて、また処刑された罪人も捨てられた所でした。

48そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。

 ゲヘナ(ヒノムの谷)は、「神の審判によって、罪人が入れられる苦しみの場所」がゲヘナと呼ばれるようになりました。
 両手、両足、両目がそろってそこに入るよりは、片手、片足、片目でも神の国に入れられたほうがよい。神との交わりを妨げるものは、それがどのようなものであっても、それをあえて切って捨てる。その思いが大切、覚悟が必要なのです。

■塩けを保つ

49すべては、火によって、塩けをつけられるのです。

 「火」は、前の節の「火は消えることがありません」につながり、「塩」は50節につながっていきます。
 火は試練、迫害を表します。神様を中心として生きようとするなら、思いがけないような試練、迫害をくぐることがあるかもしれません。神様からの試練は、塩のように霊の腐敗、堕落を防ぎます。
 そして最後の結論です。

50塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」

 当時、売られていた塩は純粋ではなかったので、塩けがなくなることがありました。
 イエス様は、「あなたがたは地の塩です」(マタイ5:13)とおっしゃいました。「地の塩になりなさい」とはおっしゃいませんでした。塩は溶けて、その姿をなくした時に、その働きをします。すでに塩となっているクリスチャンは、日ごとの生活の中で生きるときに、普段の生活の中で、塩は徐々に浸透していきます。これが私たちの塩としての働きです。塩は腐敗を防ぎ、いのちを保ち、いのちを与える大切な働きをします。だから「自分自身のうちに塩けを保ちなさい」と勧められています。
 イエス様は、十字架の死によって、私たちの罪を赦し、義という正しい覆いをかけてくださいました。それと同時に「きよさ」という覆いもかけてくださいました。キリストのきよさが私たちのものとなったのです。

Tコリント人への手紙第1、6:11「あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者(正しくない者)でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」

 しかしイエス様に救われたといっても、自分の心を見る時に、自分のうちに、きよさどころか、罪ある自分を見出します。しかし、すでに与えられている「きよめの御霊」が継続的に私たちに力を与え続けてくださり、私たちが勝利を得ることができると約束してくださっています。

ローマ人への手紙6:14「というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは……恵みの下にあるからです。」

 そのようにして私たちは、恵みによって成長し、だんだんときよめられた生活、御霊の実を結ぶ道、完成への道を歩むのです。その歩みを神様は、すでに完成された「きよさ」と見てくださいます。だから、私たちは、イエス様を信じて歩んでいます。それだけで、私たちはきよさ、塩けを保ち続けることができるからです。
 最後にイエス様は、「互いに和合して暮らしなさい」と勧められました。なんと穏やかな生き方でしょうか。私たちは、そのような歩みをイエス様によって、させていただきたいと思います。そのために、イエス様が十字架にかかってくださったことを、今日も聖餐式を通して覚えたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2009年7月5日