ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2009年7月19日


2009年7月19日 主日礼拝説教
「子どものように神の国を受け入れる」(マルコの福音書10章13節〜16節)

■はじめに
 10章から舞台はガリラヤからユダヤに移り、そこにもイエス様のもとにたくさんの人がやってきました。まずパリサイ人がやってきて、離婚についてイエス様に尋ねました。続いて、イエス様のもとに子どもたちがやってきました。

■イエス様のもとに子どもが連れて来られる

13さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。

 イエス様のもとには、病人、悪霊につかれた人たちなど、みな何かを求めてやってきます。それらの人たちは、イエス様に会いたい、お話を聞きたい、治していただきたいという願いを持っていました。ところが、今日ここに来たのは「子どもたち」でした。
 子どもと言っても、ルカの福音書では「幼子」と書かれており、4、5歳くらいまでの小さな子どもです。そんな子どもたちを、イエス様のもとに連れてきたのは親たちでした。マタイの福音書にはこうあります。

マタイの福音書19:13「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちが連れて来られた。ところが、弟子たちは彼らをしかった。」

 「さわっていただこうとして」とは、「手を置いて祈っていただくため」でした。当時、ユダヤ教の先生のもとに、「祈ってもらう、祝福してもらう」ために子どもを連れて来ることがありました。両親たちは子どもたちを祝福してもらいたい、頭に手を置いて祈ってもらいたいと連れて来ました。
 親が子どもたちを礼拝や教会学校に連れてくるのは、神様の祝福を求めてです。何もわからない子どもでも、神様の前に出るときに、神様から豊かな祝福が与えられるのです。

■弟子をしかる
 さて、せっかくやってきた子どもたちを、弟子たちが妨げました。弟子たちの中に、だれが一番偉いかの議論があったとき、イエス様は近くにいた幼子を呼び寄せておっしゃったことがありました。

9:37「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。」

 弟子たちは、それと今日のことを結びつけることができませんでした。「弟子たちは彼らをしかった」のは、それなりの理由があったでしょう。イエス様は忙しいので、もうこれ以上イエス様を煩わせないようにという弟子の配慮です。それに弟子たちには、子どもは何もわからない。理解できない。子どもは重要ではないという思いがあったかもしれません。
 これに対してイエス様は言われました。

14イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。

 イエス様は弟子に怒られました。弟子たちに対してイエス様が怒られるのはこの時だけです。それほどイエス様にとって、このことは大切なことだったのです。
 もし病気の子どもが来たならば、病気を治すために受け入れたかもしれません。そう考えると、弟子たちは霊的な祝福を与えることに、にぶくなっていたと言えるかもしれません。また弟子たちは、子どもを祝福してほしいと願った親の気持ちも考えませんでした。弟子たちは自分たちの考えで、祝福される人、祝福されない人を決めてしまって、その人をイエス様のみこころ、救いから締め出していたのでした。

■神の国は子どもたちのもの
 イエス様は、たくさんの大人を差し置いて幼子たちを呼び寄せました。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。」何の妨げもなく、だれも「止め」なければ、子どもは自然とイエス様のもとにやってきます。イエス様がそのように召しておられるのです。
 「神の国は、このような者たちのものです。」子どもたちも神の国に入れていただけるのではなく、子どもたちこそが神の国に入ることができると教えられました。ですからイエス様が、「神の国はこのような者のもの」と言われたおことばから、教会は最初から乳飲み子から子ども、大人まで、みんないっしょに、家族ぐるみで教会に加わったのでした。

■子どものように神の国を受け入れる

15まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」

 そこにいた大人に言われました。「子どものように神の国を受け入れる」とはどういうことでしょうか。子どもはまったく親に依存している者です。経済的に、社会的に、精神的に、いのちさえも親にゆだねていると言ってもいい存在です。
 ですから、子どもは親の愛に信頼し、気兼ねも遠慮もしないで、親の与えるものを受け取ります。何か贈り物をもらっても、ごちそうしてもらっても、子どもはただ喜んで受け取っています。お返しなど考えません。自分が贈り物をもらうに値するかどうかも考えません。
 そのように、子どもが親の与えるものを喜んでもらうように、そのような気持ちで、神の国、神様の救いを受け取りなさいというのです。神の国に入るために子どものようになることは、まさに恵みの中を生きる者の姿です。ですから、自分が神の国に入るために、ふさわしい者になろうとしたり、何かをしようとしている間は、神の国に入ることはできません。
 神の国は、ふさわしくない者がふさわしい者とされ、価値のない者が価値ある者とされ、罪深い者が罪赦され、義とされる所です。何も持たずに、そのまま出る者に与えられ、自分こそ与えられると思っている者には与えられません。これが神の国です。
 すでにイエス様によって神の国が来ており、イエス様が祝福を与えようと招いておられます。その招きに、子供のように応じるのです。

16そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。

 イエス様は、連れてきた親たちの希望どおり、祝福を祈られました。

■救いを受け入れる
 イエス様は、エルサレムへの道を進んでいかれました。イエス様は十字架にかかってくださり、私たちの罪を赦してくださいました。それは子どものように受け入れる者たちのための救いでした。救いは、プレゼントとして私たちに差し出しています。私たちは、これを受け取ることができるのです。それは、子どものような気持ちで、「ありがとう」と言っていただくのです。

マタイの福音書18:2−3「そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、言われた。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。』」

 私たちは、「子どものような信仰」、素直な、信頼する信仰をもって、今週も歩みたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2009年7月19日