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2009年8月2日 主日礼拝説教
「神に従う者」(マルコの福音書10章23節~31節)
■はじめに
富める青年がイエス様に永遠のいのちについて尋ねました。彼は、イエス様に言われた十戒、「殺してはならない。姦淫してはならない」などをみな守っていると答えました。するとイエス様は青年に、思いもかけないことば、「あなたは、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そのうえで、わたしについて来なさい」とおっしゃいました。
青年はそれができなかったので、悲しみながら去って行きました。青年は、律法を行うことによって永遠のいのちを得られると思っていました。イエス様は、それができないことを示すために、「あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい」と、究極の条件を出したのでした。
青年はイエス様のお心を汲み取ることができませんでした。今日は、それの続きです。
■神の国に入ることの難しさ
青年とイエス様のやりとりを見て弟子たちはどう思ったでしょうか。彼らは自分たちのことを考え、不安になりました。それでイエス様は、青年が去ったあと、弟子たちに神の国に入ることについて教えられました。
23イエスは、見回して、弟子たちに言われた。「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。」
弟子たちはこれを聞いて驚きました。「裕福な者」は、神様に祝福されているから裕福になったのであって、それが神の国に入る妨げになるとは考えてもいませんでした。神の国に入るのに理想的な青年が去って行ったのでした。
24弟子たちは、イエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて、彼らに答えて言われた。「子たちよ。神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。
イエス様は戸惑い顔の弟子たちに、重ねて神の国に入ることの難しさを言われ、そして、らくだのたとえを使って語られました。
25金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
らくだは、当時イスラエル地方にいた最大の動物でした。それが針の穴を通ることはできない。イエス様は、それ以上に金持ちが神の国に入るのは難しいと言われました。
26弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」
弟子たちの驚きはもっともでした。イエス様の、あまりに非現実的なことばに対して、弟子たちはため息ともあきらめともつかないことばを発しました。これではだれも救われない、だれも神の国に入れないと。
そう、自分の力ではだれも入れないのです。ここから救いは始まるのです。それをイエス様は教えようとされました。救いは人のわざではなく、神様のわざでした。人がいくらじたばたしても、自分の力では救われないのです。
イエス様は弟子たちに、神様から祝福されていると思われている裕福な者も、自分が正しいことを守り行っていると思っている者も、だれも救われないことを教えられたのでした。
■どんなことでも、神にはできる
しかし、神様は不可能を可能にしてくださるお方でした。
27イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」
イエス様は、救いの主導権は神様にあることを示されました。私たちがすることは、この神様を信頼し、より頼むことです。それは、幼子のようになることでした。何も持っていない、何かをすることもできない者が救われるのです。
マルコの福音書10:15「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」
強いことばです。決してそこに入ることができないのです。神様が手を差し出さなければ、自分の力ではだれも神の国に入れないことを言われたのでした。まさに神様の恵み、神様の選びでした。
「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです」とイエス様が言ってくださいました。「それでは、だれが救われることができるのだろうか」という問いに対してイエス様は、だれでも、神様の恵みによって救われると言ってくださったのでした。
■ペテロの問い
そうであっても、ペテロはよく理解していなかったようです。青年と同じ考えから抜け出せませんでした。ペテロは、「私たちは、あの青年とは違います」と語りました。
28ペテロがイエスにこう言い始めた。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。」
ペテロは、自分のこと、自分が捨てた網や舟を捨てた時のことを考えました。
マルコの福音書1:16-18「ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。……イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。』すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。」
ペテロは、自分はすべてを捨ててイエス様に従ってきたと語りました。それは、イエス様のまなざしの中、「ご覧になった」と言われているイエス様の招きによって、イエス様について来たのでした。ヨハネも、マタイも、みなイエス様のまなざしの中、イエス様が選んでくださり、呼んでくださった、そこから立ち上がったのでした。
■イエス様の約束
さらにイエス様はペテロたちに、その捨てたものを上回る祝福を約束してくださいました。
29イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、30その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。
イエス様は、「主のため、また福音のために」ペテロたちが何もかも捨てて従ってきたことを認められました。その捨てた以上の祝福を与えるとペテロたちに約束されました。それは、報酬ではなく、神様からの恵みでした。
31しかし、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」
しかし、多くの犠牲をささげたからと言って、来るべき世ではあとになることもあるのです。救われる順序は違っても、神様のための働きは違っても、ささげる物は違っても、それとは関係なく、神の国では、みな平等であると教えられたのです。
■富める青年
あの富める青年はどうだったでしょうか。青年もイエス様に愛されていました。「イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた」(10:21)とありました。
青年は、イエス様の十字架を見たのではないでしょうか。そのとき青年は、持っているものを捨てきれない青年のために、代わりにイエス様が十字架にかかってくださったこと信じたと、私は思うのです。そして青年は、律法を行うことによってではなく、イエス様の十字架を信じるその信仰によって罪が赦され救われ、永遠のいのちを得ることができると信じたと思うのです。彼は救われたあと、自分はかつてイエス様の前から立ち去った者であったことを語ったでしょう。青年は、この時はペテロたちのように何もかも捨てて従うことができなかったけれども、あとの者となって、神様の国で祝福を受けたと想像できるのです。
■エルサレムへの十字架の道
イエス様は、エルサレムに向かっていきます。あの青年のために、ペテロたちのために、私たちのために。それは、自分の力ではできないが、「どんなことでも、神にはできる」ことを示すために、またご自身が選んだ者、神様に従う者に豊かな祝福を与えるために、十字架にかかってくださるために進んで行くのでした。
今日は、このあと、聖餐式を行います。イエス様が私たちのために十字架で裂かれた体と流された血潮を覚えて、恵みの時としたいと思います。
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