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2009年8月9日 主日礼拝説教
「人の子は仕えるため、また自分のいのちを与えるために来ました」(マルコの福音書10章32節〜45節)
■はじめに
イエス様は、3回受難予告をなさいました。1回目は、ピリポ・カイザリヤでのペテロの信仰告白のあとでした(8:31)。2回目は、イエス様が変貌の山に登られ、また山から降りて、そこにいた悪霊につかれた子どもをいやされたあとでした(9:31)。そして、今回が3回目になります。
■3度目の予告
イエス様は「エルサレムに上る途中」でした。もう十字架がすぐそこというところまで来ていました。
33「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。34すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」
この予告は、今までに語られた予告に比べて3つの新しさがあります。
1つは、「エルサレムに向かって行きます」と、それがエルサレムで起こることを告げます。
2つは、イエス様は、エルサレムで「祭司長、律法学者たち」拒絶され、部外者である異邦人(律法のないもの)に引き渡されるという、これ以上ない拒絶にあうことが語られます。「イエスは、私たちユダヤ人が待っていた救い主ではない」とされ、それでローマ人の手に渡されることになります。しかしそれが、イエス様の処刑が公にされ、十字架がユダヤだけではなく異邦人にとっても救いとなったのでした。
3つは、イエス様は「あざけり、つばきをかけ、むち打ち」にあうと、具体的に語られます。弟子たちは、イエス様の国が建てられる時が近くなったと感じました。
■ヤコブ、ヨハネの願い
35さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」
ヤコブとヨハネは、イエス様の国がどういう国か理解していたのかはわかりませんが、エルサレムでイエス様がダビデの王座につかれると感じていたでしょう。今までのイエス様の言動をみれば、エルサレムに入り、ローマを追い出すことなど何でもないと考えていたのかもしれません。
また、だれが一番偉いのかという論争に決着をつけようとしたのかもしれません。ふたりは、12弟子の中でも、ペテロと並ぶ三羽ガラスの弟子でした。このところ目立ってきているペテロを出し抜こうとしたのかもしれません。
36イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」37彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」
彼らは、イエス様が栄光を受けるとき、イエス様の右と左に座る右大臣、左大臣としてください。今のうちにそのことを約束してください、と願いました。彼らは、いつもイエス様のそばにいたいという思いは純粋であったでしょうが、彼らは、「雷の子」と呼ばれていました。彼らは熱情的だったのです。
■イエス様の答え
38しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」
イエス様は、ヤコブ、ヨハネが何を求めているかわかっていないとおっしゃいました。わかっていれば、そのような地位を求めるはずがなかったのでした。イエス様から「先の者があとになり、あとの者が先になる」と教えられたばかりでした。
イエス様は言われました。「あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」
杯は旧約で苦難の象徴でした。しかも「わたしの飲もうとする杯」とは、直接的には十字架でした。イエス様はゲツセマネの園での祈りで、ご自分が受ける十字架を「わたしの受ける杯」と表しました。
バプテスマは水の中に沈めることでした。そこから神の苦難を受けるという、象徴に使われたのでしょう。
39彼らは「できます」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。
「できます」と、彼らの答えは短いものでした。ヤコブとヨハネは、何らかの苦難を覚悟したでしょう。しかし、その苦難のあとに、イエス様の近くに座るのです。「できます」、だからあなたの近くに座らせてください、と答えました。
私たちがいつも聖書から教えられていることばで言えば、ヤコブとヨハネは、「そうさせてくださるのはあなたです。あなたがそうさせてくだされば、私たちはできます」と答えるべきでした。
しかし、このときはイエス様のほうで、ふたりにそれができると約束してくださいました。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。」
確かに、ヤコブは使徒たちで最初の殉教者になりました。ヨハネは、最後まで生き延びましたが、迫害を受け、パトモスという島に島流しにあいました。彼らは、そのような苦難を受けたのです。彼らはその時に、このイエス様のことばを思い出したでしょう。イエス様の言われた杯を飲んだのでした。
40しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」
イエス様は「右と左にすわることは」父なる神様のみこころの中にあると言われました。父なる神様が選んでおられる人々がいるのです。イエス様が苦難を受けようとしているのも、御父のみこころをなすためでした。ご自分の栄光を得るために、苦難の道を歩んでいるのではありませんでした。
■しもべとしての歩み
41十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。
ほかの弟子たちも同じようなことを考えていたからでしょう。とりわけペテロは怒ったでしょう。しかし、ペテロは「3回イエス様を知らないと言ってしまう」自分の弱さを示されるのです。そこでイエス様は、12弟子に向かって話し始めます。
42そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。43しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。44あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。
この世の偉い人たちは権力をふるうが、あなたがたは仕える者になりなさい。前は「子どものようになりなさい」と教えられましたが、今回は「みなのしもべに」、奴隷のようになりなさいと勧められました。
それはイエス様ご自身の歩みがそうでした。十字架を負って歩み、ついには十字架にかかることは仕える歩み、しもべとしての歩みでした。イエス様は、みなのしもべになる歩み方、生き方を全うしようとしていたのでした。
45人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
贖いの代価とは身代金という意味です。捕虜になった者に、お金を払って返してもらうことです。それが罪の身代わりとなって刑罰を受けて、その罪が赦されるという意味で使われるようになりました。
人が罪を犯せば、そのために刑罰を受けなければなりません。それが、羊、牛などの犠牲のささげ物でした。しかし人の罪は、人が創造されたときに神との契約を破ったことによって生じてきた罪です。それは人に死をもたらしました。イエス様は、それを自らのいのちで全人類のために贖いの代価を支払ってくださいました。
イエス様は、私たちが「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」国に入る約束をしてくださいました。それは、イエス様が仕える生涯を全うしてくださったことを通して私たちに与えてくださったのでした。イエス様は、しもべの道を歩まれました。イエス様は、自分のいのちを与えることを通して、私たちのしもべとなられました。
私たちは、そのイエス様に愛され、守られていることを感謝して、これからも信仰の道を歩みたいと思います。
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