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2009年8月23日 主日礼拝説教
「主イエスを王として迎える」(マルコの福音書11章1節〜11節)
■はじめに
11章に入りました。10章からイエス様たちはユダヤ地方へ行かれ、そしてエルサレムへの旅を続けておられます。先週はエリコの町で盲人のバルテマイに会い、その目をいやされたことを見ました。
バルテマイは「ダビデの子イエス様」と呼びかけました。イエス様は、そのダビデの子である王として、エルサレムに入城されます。人々は、イエス様がエルサレムで王として何かをするのではないかと期待しました。しかし、イエス様と人々との王理解は違っていました。
この日は日曜日です。イエス様はこの週の金曜日に十字架にかかられることになります。
■ろばの子
1さて、彼らがエルサレムの近くに来て、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づいたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、
イエス様たちは、エリコから、オリーブ山のふもと「ベテパゲとベタニヤ」の近くにやってきました。ここからイエス様は、エルサレムに入城なろうとしていました。イエス様は、その準備を「ふたりの弟子」に命じました。
2言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。3もし、『なぜそんなことをするのか』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます』と言いなさい。」
イエス様は、だれも乗ったことのない、ろばの子がつないであるのをご存知でした。それは、遣わされた弟子たちへのしるしでした。そして、持ち主に尋ねられた時に「主がお入用なのです」と言えば、そのろばを貸してくれることも教えました。
イエス様は、あらかじめエルサレムにいた弟子と打ち合わせをして、ろばの子を用意していたのでしょうか。そうではなく、神の子としてイエス様がそこにろばの子がつないであったことをすでに知っておられ、ご自分がなさろうとする時には人の心を動かすことのできることを、弟子たちに示されたのでした。
「主がお入用なのです」と言って、ろばの子を連れていこうとする弟子たちのことばに、人々は、主とはだれのことを言っているのか、何のことか分からなかったかもしれませんが、彼らに神様の導きがありました。彼らは喜んでろばを貸してくれました。
すべてイエス様のおっしゃったとおりに事が運び、弟子たちはろばの子をつれて戻ってきました。
■ろばの子に乗って
7そこで、ろばの子をイエスのところへ引いて行って、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。
ろばには鞍がなかったので、弟子たちは、自分たちの上着を脱いで、ろばに掛けました。そのろばの子に乗って、イエス様はゆっくりと道を進みました。マルコの福音書では触れられていませんが、マタイ、ヨハネの福音書には、これはゼカリヤ書の預言が成就したこととして書かれています。
ゼカリヤ書9:9「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」
ろばは、どんなにたくましくても、戦争の役には立ちません。戦いをするのは馬です。ろばは、馬と違って日常の仕事のために使われる家畜です。馬に乗るはずの王が、ろばに乗ってやってくる王とは、戦いをやめた平和の王を意味していました。
イエス様がエルサレムにろばに乗って入られる姿は、力や権力ではなく、愛と犠牲によって人々を救おうとされる王にふさわしいお姿でした。
■ホサナ、私たちを救ってください
人々はイエス様を迎えました。
8すると、多くの人が、自分たちの上着を道に敷き、またほかの人々は、木の葉を枝ごと野原から切って来て、道に敷いた。9そして、前を行く者も、あとに従う者も、叫んでいた。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。10祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。ホサナ。いと高き所に。」
その時、エルサレムは、過越の祭りを控え、各地から集まってきた人々でにぎわっていました。ガリラヤからつき従っていた人々が中心であったでしょう。それにエルサレムにいた人たちもいっしょになって自分たちの上着を脱いで道に敷きました。それは王を迎えることを意味していました(U列王9:13)。
そして、木の枝を切ってきて、それを道に敷きました。ヨハネの福音書によると、その木は「しゅろの木の枝」であったとあります。日本では、扇型の枝の「しゅろ」を連想しますが、これは、楕円型の「なつめやし」の枝のことです。新共同訳は「なつめやしの枝」と訳しています。
彼らは、イエス様を囲むように、前と後ろを進みました。熱狂して「ホサナ」と叫びました。ホサナとは「私たちを救ってください」という意味です。これは詩篇118篇25節にある、エルサレムに来る者と、それを迎える者たちとのことばでした。ホサナと叫ぶ声は、喜びの声となって、響き渡りました。
群衆はイエス様を王として認め、「祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。ホサナ。いと高き所に」と叫びました。群衆は、イエス様を救い主、王として迎えました。それは、ローマから解放してくれる強い王でした。それが彼らの「ホサナ」(私たちを救ってください)の叫びでした。ところがイエス様は、罪に打ち勝つ王として、神の国を打ち立てる王として来られました。そのことが人々に理解されていなかったのでした。
この日から5日目、「ホサナ」と叫んだ群衆が、パリサイ人、律法学者の扇動によって、「十字架につけよ、十字架につけよ」と要求し、「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい」と叫んだエルサレムの住民の声によって、ついにイエス様をゴルゴタの丘の刑場へと追いやってしまうのです。
イエス様は、そのこともご存じで、人々の移りやすい心もご存じで、ろばの子に乗りながら、人々の「ホサナ、救ってください」という叫びを聞いておられました。イエス様は、この何もわからない者たちのために、イエス様は十字架で「彼らをお赦しください。彼らは何をしているのかわからないのです」と祈られました。その罪のために、そして私たちの罪のために「ホサナ、私たちを救ってください」という彼らの願いを、恵みをもって十字架の死によって成就してくださったのです。
11こうして、イエスはエルサレムに着き、宮に入られた。そして、すべてを見て回った後、時間ももうおそかったので、十二弟子といっしょにベタニヤに出て行かれた。
イエス様は、ゼカリヤ書に預言されていたとおり、エルサレムにろばの子に乗って入城され、そして神の宮に入られました。そして、翌日の活動に備えて、ベタニヤに帰られました。そこにはマルタ、マリヤ、ラザロの3兄弟が住む家がありました。
■主イエスを王として迎える
イエス様は確かに、私たちの王として来てくださいました。イエス様は、子ろばの子に乗って、人々が見ている前を進まれました。
私たちの王は、力をもって従わせようとする王ではなく、このような柔和な王様、ろばの子に乗られたイエス様です。「ホサナ、私たちを救ってください」という願いに、確かに答えてくださるお方なのです。
私たちがイエス様に従うとは、このイエス様を自分の心に、自分の心のエルサレムに、私たちの生き方の中に、ろばの子に乗って来られたイエス様をお迎えし、王として認めることです。この1週間も、イエス様を王としてお迎えした私たちは、イエス様と共に歩みたいと思います。
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