ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2009年8月30日


2009年8月30日 主日礼拝説教
「わたしの家は祈りの家」(マルコの福音書11章12節〜25節)

■はじめに
 今日は、いちじくの木の呪いと宮きよめの記事がサンドイッチになっている箇所です。なぜイエス様はこのような呪いを伴う奇蹟をなさったのか。また、なぜ神殿でこのような乱暴なことをなさったのでしょうか。

■いちじくの木を呪う

12翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。 

 翌朝のことです。曜日でいえば月曜日になります。イエス様はベタニヤを出られてから、空腹を覚えられました。

13葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。

 イエス様がいちじくの木に近寄って見ると、食べられるような実がなっていませんでした。いちじくが熟する季節ではなかったからです。いちじくの食べごろは秋、今は春でした。食べられる実がないのは当たり前でした。ところが、イエス様はそのことでいちじくの木を呪ったのです。

14イエスは、その木に向かって言われた。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」弟子たちはこれを聞いていた。

 このいちじくが次の日に見ると枯れていました。

20朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。21ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」

 この奇蹟は、何を教えようとしたのでしょうか。
 いちじくは、イスラエルを示す果物でした。イエス様は、いちじくに実を求めましたが、葉ばかりで実がなっていませんでした。イエス様は、イスラエルの礼拝もそのようになっていることを示そうとされたのです。

■宮きよめ
 それから、イエス様は神殿に向かわれました。

15それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、16また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。

 ここは「異邦人の庭」と呼ばれる神殿の庭で、だれもが出入りできる場所でした。そこに礼拝に必要なものが運び込まれ、売り買いされていました。
 「両替人」が必要なのは、神殿に納める貨幣が決められていたからでした。最も流通しているローマ貨幣は、ローマ皇帝の像が刻まれていて、神殿に納める貨幣としてはふさわしくありませんでした。
 犠牲としてささげる動物は、傷のないものでなければなりませんでした。検査が通っている「鳩」などが売られており、すぐに礼拝できるようになっていました。その検査をして、お墨付きを与えるのが祭司でした。検査料を祭司がとり、また商人が利益を乗せて販売していたのです。それに対して、イエス様が怒られ、彼らを追い出され、台や腰掛けを倒してしまいました。
 いちじくの立場からすれば、春なので実がなってなくて当然ということになります。神殿にいた商売人たちにすれば、神殿にささげるお金を替えてあげ、ささげ物を用意していたのです。なぜそれが悪いことなのかということになります。

■神殿は祈りの家

17そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」

 イエス様は、神殿の本来の役割「祈りの家と呼ばれる」ことを教えようとされたからでした。神殿は、そこに神様がいらっしゃることの象徴として建てられたものでした。もともとは、モーセの時代の、荒野にあった幕屋でした。神様は神殿建設を望みませんでした。
 しかし、神様に許されて、ダビデの子ソロモンが壮大な神殿を建てました。ソロモンは神殿を建て終わった時にこう祈りました。それはイスラエルの信仰、神殿に対する信仰を示していました。

列王記第1、8:27「それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。」

 そして、この神殿で祈ることに耳を傾けてください、と祈りました。

列王記第1、8:29−30「そして、この宮、すなわち、あなたが『わたしの名をそこに置く』と仰せられたこの所に、夜も昼も御目を開いていてくださって、あなたのしもべがこの所に向かってささげる祈りを聞いてください。あなたのしもべとあなたの民イスラエルが、この所に向かってささげる願いを聞いてください。あなたご自身が、あなたのお住まいになる所、天にいまして、これを聞いてください。聞いて、お赦しください。」

 しかし神殿は、神殿そのものが神聖化され、そしてさらに神殿に他国の偶像が安置され、イスラエルの信仰は堕落していきました。神殿は、ソロモンから約400年後、バビロニヤ帝国によって破壊され、民は捕囚となってバビロンに連れていかれました。
 捕囚から70年後、バビロニヤを滅ぼしたぺルシヤ帝国によって解放されたユダヤの民は、エルサレムに帰って神殿を建てることになりました。それは、信仰と礼拝が新たにされた時でした。
 イザヤは、バビロン捕囚から帰ってきた時、神殿が再建され、きよめられ、そこは祈りの家となることを預言しました。

イザヤ書56:7「わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」

 しかし今は、神殿は「祈りの家」でなく、「強盗の巣」になり下がっていました。神殿は、新しく生まれる神の民のために破壊されなければなりませんでした。だれもが、自由に礼拝できる場所をイエス様は求めていたからでした。

ヨハネの福音書4:23−24「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」」

 葉だけで実が結ばない信仰になっていたイスラエル。神殿に来ることだけが目的の、形骸化されてしまった神殿礼拝。イエス様はいちじくの木の奇蹟と、神殿のきよめによって、そのことを示そうとされました。神殿は「祈りの家」とならなければなりませんでした。

■祈りの姿勢
 祈りとは何かを弟子たちに示したのが、枯れたいちじくを前にして語られた次のことばでした。

22イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。23まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。24だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。

 まず「神を信じなさい」とおっしゃいました。イエス様の十字架が3日後に起ころうとしています。そのなっても、神様を信じ続けるように弟子たちに語られました。そして、新しい礼拝の姿、祈ることの大切さ、祈りの力を教えられました。
 私たちが「動いて、海に入れ」と信じて祈れば、そのようになるというのです。すごい約束です。これは比喩として語られたものですが、そのような大きな約束が弟子たちに与えられました。
 そのために、神ご自身であられる御霊が私たちに内住してくださり、祈りを導いてくださいます。

ローマ人への手紙8:26「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」

 そのような祈りの生活を通して、私たち信仰者の歩みがきよめられ、人を赦すことができるようになるのです。

25また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」

 私たちの罪の赦しは、イエス様の十字架によって与えられました。私たちは今その信仰を歩んでいます。私たちは、祈りの生活によって、恨みや憎しみを赦すことができ、恨みや憎しみは消えていくのです。それは、祈ることによって実現し、その実は、御霊の働きによって少しずつ少しずつ現れてくるのです。
 今や私たちは、どこででも、だれもが自由に礼拝でき、祈ることができるようにされました。そのような信仰が与えられ、礼拝ができる恵みを感謝して歩みたいと思います。日々、祈りの中で、神様とともに穏やかな歩みをしたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2009年8月30日