ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2009年9月13日


2009年9月13日 主日礼拝説教
「主イエスの権威」(マルコの福音書11章27節〜33節)

■はじめに
 11章から始まった1週間。イエス様がろばの子に乗ってエルサレムに入城したのが日曜日。月曜日の朝、イエス様は実のなっていなかったいちじくを呪い、神殿に入り両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒されました。翌日、火曜日には、イエス様に呪われたいちじくが枯れていました。そこでイエス様は、イスラエルの人たちがまことの礼拝をささげることができなくなっていたので、それを正し、新しくするためにいらっしゃったことをお話しなさいました。
 そこからエルサレムの神殿に向かわれました。

■祭司長、律法学者、長老たちの問い

27彼らはまたエルサレムに来た。イエスが宮の中を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちが、イエスのところにやって来た。

 イエス様が宮の中を歩いておられたところに、マタイ、ルカの福音書によると、「民衆に教えておられた」ところに「祭司長、律法学者、長老たち」がやってきました。彼らはユダヤ教社会の代表者たち、サンヘドリンというユダヤ議会を構成しているメンバーたちでした。

28そして、イエスに言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにこれらのことをする権威を授けたのですか。」

 「何の権威によって、これらのこと」とは、直接的にはイエス様がなさった神殿での行為でした。そのほかにも、今まで問題にしたこと、安息日に対する違反、きよめに対する違反、取税人や異邦人と食事をしたなどさまざまあったでしょう。
 彼らはエルサレムと神殿の治安に責任を持っていましたので、騒動が起こることを恐れていました。群衆がみなイエス様の教えに驚嘆していたからでした。そこで、これ以上黙ってはいられないと考えて、イエス様のところにやってきたのでした。
 しかし、彼らの態度はすでに決まっていました。18節にあるように、「どのようにしてイエスを殺そうかと相談」していたのでした。

■何の権威によってか
 「何の権威によって」とは、あなたはだれの弟子なのか。だれから語ってよいという許しを得たのかの問いでした。彼らが守り、教えている律法は、モーセが神様から与えられたものでした。それを代々律法学者たちが解釈したものを受け継ぎ、引用し、それを民衆に教えていました。それが彼らの権威の根拠となるものでした。ところが、イエス様はだれからの教えも受けず、今までの解釈を踏襲せず、自分の名によって、それが神からのものであるとして教えていました。
 イエス様が、この問いに対して「神から」と答えれば、神の名を語る罪を犯したとして逮捕でき、「人から」と言えば、偽証と神殿を汚した罪で逮捕できたのでした。

29そこでイエスは彼らに言われた。「一言尋ねますから、それに答えなさい。そうすれば、わたしも、何の権威によってこれらのことをしているかを、話しましょう。

 彼らは真理を求めていませんでした。イエス様がどう答えても、彼らはイエス様を逮捕しようと待ち構えていました。

■ヨハネのバプテスマは天から来たのか
 そこでイエス様は、反対に質問をなさいました。

30ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。答えなさい。」

 バプテスマのヨハネは、「洗礼運動」を始めるにあたって、エルサレムの祭司から許可をもらったわけではありませんでした。ヨハネは神様の御霊に動かされて、「洗礼運動」を開始しました。それは神様から直接預言者として召されたからでした。
 ヨハネは、人々に罪を悔い改めるよう語り、そのしるしとして洗礼を授けました。そして、「もうすぐ救い主がやって来る」ことを人々に告げたのでした。悔い改めと洗礼は、今までアブラハムの子孫として、モーセの律法を守る者として、安穏と過ごしてきたユダヤ人指導者にとって衝撃的なメッセージでした。洗礼は、異邦人がユダヤ教に回心した時に受けたものだったからでした。
 ヨハネはこう語りました。

マタイの福音書3:10「斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」

 この緊急性のあるメッセージに民衆は打たれ、ヨハネが神様から遣わされた預言者であることを信じ、「ユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた」(マルコ1:5)のでした。

31すると、彼らは、こう言いながら、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったかと言うだろう。32だからといって、人から、と言ってよいだろうか。」──彼らは群衆を恐れていたのである。というのは、人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。

 彼らはイエス様の質問に答えられませんでした。天からとは言えませんでした。彼らはヨハネを預言者と認めていなかったからでした。自分たちが異邦人と同列に置かれたことと、自分たちも罪を指摘され、悔い改めるよう言われたヨハネを無視し憎みました。しかし、民衆は「ヨハネは確かに預言者」、神からの者と信じました。
 一方「人から」と言えば、民衆から何をされるかわかりませんでした。ルカの福音書は「もし、人から、と言えば、民衆がみなで私たちを石で打ち殺すだろう。ヨハネを預言者と信じているのだから」(20:6)と書いています。

33そこで彼らは、イエスに答えて、「わかりません」と言った。そこでイエスは彼らに、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい」と言われた。

 彼らは何が正しいかの判断をしないで、逃げたのでした。彼らは、真実に目を向けるチャンスをイエス様から与えられたのに、その機会を逃したのでした。そこにある聖霊の働きを、彼らは拒否したのでした。彼らは、自分たちが持っていた権威を失いたくありませんでした。
 イエス様も、彼らの質問に答えることを拒否されたのでした。

■イエス様の権威
 イエス様は天からの権威を持って、この世に来られました。しかし、その権威は、人の上に立つためではありませんでした。むしろ、しもべとなって、仕えるために来られました。
 イエス様は、その力をもって人々を救うこともできました。サタンの誘惑もそこにありました。サタンは、こう言って誘惑しました。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう」(ルカ4:6)。イエス様はそれを拒否されました。そして、神様が定められた、神様が恵みを与えようとする人がイエス様の十字架による身代わりの死を信じることによって救われるという方法に従われました。
 イエス様はご自分の権威をそのように使われました。

ヨハネの福音書10:18「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」

 私たちは、イエス様を神様から遣わされたお方として信じています。聖霊がひとりひとりに働いてくださり、そのようにされたことを感謝いたします。そして今、豊かな祝福と恵みをいただいていることを感謝し、これからもイエス様を信じて歩んでいきたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2009年9月13日