ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2009年9月20日


2009年9月20日 主日礼拝説教
「礎の石となられた主イエス」(マルコの福音書12章1節〜12節)

■はじめに
 ここは、マタイ、ルカの福音書にもある「ぶどう園の悪い農夫のたとえ」です。11章から受難週が始まりました。日曜日に、イエス様はエルサレムに入城されました。それからイエス様は宿舎にしていたベタニヤに帰り、朝になると、またエルサレムに行かれるという生活をなさいました。
 イエス様は、神殿で「祭司長、律法学者、長老」たちから「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか」と問われました。それに対してイエス様は、「ヨハネのバプテスマは天から来たのか、人から出たのか」と質問しました。祭司長、律法学者、長老たちは答えられませんでした。続いてイエス様は、ご自分がどういう者であるかを、たとえをもって話し始められました。

■ぶどう園を貸して旅に出た主人

1それからイエスは、たとえを用いて彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を造って、垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。

 主人が新しくぶどう園を造って、それを農夫たちに貸して旅に出ました。ぶどう園はイスラエル、主人は神様、農夫はイスラエルの指導者です。「垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て」と、ここまでしっかりぶどう園を造り、必ず実がなるように手はずを整えて農夫に貸したのです。

2季節になると、ぶどう園の収穫の分けまえを受け取りに、しもべを農夫たちのところへ遣わした。3ところが、彼らは、そのしもべをつかまえて袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。

 いよいよ、ぶどう園が収穫する時が来て、主人はしもべを遣わしました。ところが彼らは、送られてきたしもべを「袋だたきにして」、そのまま帰してしまいました。
 主人は、辛抱強く、次の年に別のしもべ、また次の年にも別のしもべ、また多くのしもべを送りました。これらのしもべたちも傷つけられ、あるいは殺されてしまいました。主人から送られた、これらのしもべは、神様から送られた預言者たちでした。預言者は、イスラエルが苦難の時、あるいは人々が神様を忘れ罪を犯している時に、人々に悔い改めと、神様に立ち返ること、そしてやがて救い主がやって来ることを伝えました。
 このように神様は、預言者を繰り返しイスラエルに送られましたが、イスラエルの指導者たちは預言者を無視し、殺すことさえしました。

■主人の息子

6その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった。彼は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう』と言って、最後にその息子を遣わした。

 主人は、最後に最愛の息子を送ろうとしました。それは、普通の常識では考えられないことでした。息子は、父自身とも言うべき存在でした。主人は今までのしもべにしてきたことを不問にし、息子を送ろうとしました。主人は、あくまで農夫たちを信じて、「愛する息子」イエス様を送りました。
 これは、イスラエルに対する神様の大きな愛を示しています。しかし、「最後に」とあるように、これは神様からの最終の、待ったなしの手段でした。しかし農夫たちは、主人の息子がやって来たので、この跡取り息子を殺せばぶどう園は自分たち財産になり、これから好き勝手にできると考えました。

8そして、彼をつかまえて殺してしまい、ぶどう園の外に投げ捨てた。

 農夫たちは、これでぶどう園は自分たちのものになったと考えたでしょう。そのとき「ぶどう園の主人は、どうするでしょう」。

9ところで、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。

 主人は怒って、その農夫たちを滅ぼし、ぶどう園を「ほかの人たちに与えてしまう」というのです。神様の祝福が、イスラエルから異邦人に移っていくというのです。

■礎の石

10あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。11これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』」

 この詩篇118篇にあるみことばは、家を建てる職人が「こんなものが使えるか」と言って捨てたもの、いらないと思って捨てた石が、建物が出来上がってみると、最も大事な柱を支える「礎の石」になったことを歌っています。家にとってなくてはならない、最も重要な石になったのでした。
 これは、捨てられたと思われたイスラエルがなおも神様に選ばれ、守られる民であり続けるということを歌った詩篇でした。しかしこの詩篇には、もっと大きな真理が込められていました。捨てられた石はイエス・キリストでした。人々に苦しめられ、捨てられ、十字架によって殺される神の子、イエス様を示していました。

12彼らは、このたとえ話が、自分たちをさして語られたことに気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、やはり群衆を恐れた。それで、イエスを残して、立ち去った。

 彼らは、以前からイエスを殺そうと、その機会をねらっていたので、この際、いま捕まえてしまおうかと考えました。しかし、群衆はイエス様を王として、預言者としてエルサレムに迎えました。「律法学者、祭司長、長老たち」は、今すぐにはイエス様を逮捕できなかったのでした。

■神様のご計画
 なぜ彼らは、イエス様が神様から遣わされたお方であることを信じようとしなかったのでしょうか。彼らは、自分たちが持っているぶどう園の管理者としての権威、イスラエルの指導者、律法の解釈者としての地位を失いたくなかったのでした。
 ところが、ここにイエス様が彼らの前に現れました。イエス様は、彼らが守っていた律法を新しく解釈し直しました。群衆はその教えに驚き、イエス様についていこうとしていました。ユダヤの指導者たちは、すべての人を愛し、救いたいという神様の御心を知ることができないで、そのためにやってきた神の愛する御子を殺そうとしました。彼らは、その大きな罪を犯そうとしていました。
 イエス様を殺そうとする長老、祭司長たちも、イエス様を裏切ろうとするユダも、イエス様を裁こうとしているローマの総督ピラトも、そして、最後はイエスを十字架につけよと叫んだ民衆も、みな神様の救いのご計画のまま、3日後に迫った十字架に向かって進んでいくのです。
 イエス様は、十字架で人々に捨てられたように見えましたが、イエス様は復活し、神様の栄光の座につかれました。そのことによって、イエス様が最も大切な礎の石となったことを、だれの目にも明らかにされたのです。
 神様はこの世を愛され、最後に神の愛する御子を送られました。神様のみこころは、その愛する息子が殺されることによって人々を救うことでした。

ヨハネの福音書3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

 捨てられた石は、すべての人の罪を赦す救いの石となりました。信じるすべての人に、永遠のいのちを約束する石となりました。
 ペテロは、イエス様の復活後、「律法学者、祭司長たち」に捕らえられたとき、詩篇118篇を使って力強く語りました。

使徒4:11−12「『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった』というのはこの方のことです。 この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」

 捨てられた石が、生ける石となりました。いのちの源となりました。そのことを信じる者には、永遠の祝福が与えられます。日々の歩みのなかで、あふれるばかりの喜びと恵みが与えられます。そのことを感謝してまた、今週も歩みたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2009年9月20日