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2009年10月4日 主日礼拝説教
「復活の希望」(マルコの福音書12章18節〜27節)
■はじめに
イエス様がエルサレムの神殿で人々にお話ししていたところに、ユダヤ教指導者たちが次々とやってきて質問をしました。前回は、パリサイ人とヘロデ党からの「ローマ皇帝であるカイザルに税金を納めるべきかどうか」という質問でした。今回は、復活を信じていなかったサドカイ人からの永遠のいのちについての質問です。
今の私たちのいのちがどうなるか。死んだらもうおしまいなのか。聖書は、いのちは神様から造られたもので、いのちは死後もなくならないで連続していると考えます。
■サドカイ人からの質問
18また、復活はないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問した。19「先生。モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、兄が死んで妻をあとに残し、しかも子がない場合には、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない。』
サドカイ人は、パリサイ人と並ぶユダヤ教の有力な一派で、祭司貴族階級、富める支配階級を代表していました。彼らは復活を認めていませんでした。サドカイ人が語ったことは、モーセ律法の規定にあることでした。
申命記25:5「兄弟がいっしょに住んでいて、そのうちのひとりが死に、彼に子がない場合、死んだ者の妻は、家族以外のよそ者にとついではならない。その夫の兄弟がその女のところに、はいり、これをめとって妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。」
こうして生まれた子に亡くなった兄の名を継がせ、兄の遺産を相続させます。財産は近親者に残り、残された妻の生活も保証されることになります。
20さて、七人の兄弟がいました。長男が妻をめとりましたが、子を残さないで死にました。21そこで次男がその女を妻にしたところ、やはり子を残さずに死にました。三男も同様でした。22こうして、七人とも子を残しませんでした。最後に、女も死にました。23復活の際、彼らがよみがえるとき、その女はだれの妻なのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのですが。」
7人の兄弟がいて、次々と男の兄弟は亡くなり、弟たちはみな長男の嫁と結婚することになります。復活した時に一体その女はだれの妻なのか。まさか、7人の男の妻になるわけにはいかないでしょう。だから復活などありえないというのです。
■めとることも、とつぐこともない
24イエスは彼らに言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。25人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。
イエス様の答えの1つ目は、復活の世界では結婚関係、人間関係がどうなるのかを語りました。
サドカイ人は復活の世界と今の世界が同じであると考えたので、質問のようなおかしさが出てきたのでした。当時は、子どもを産み、子孫に自分の名と土地を受け継がせることが結婚の最大の目的でした。それは日本でも、戦後の新民法になるまで、その考えがありました。
ところが、復活の世界では、もはや死ぬことがないのですから、名前や土地を相続する者は必要ないのです。それで、イエス様は「めとることも、とつぐこともありません」と、そのような子孫を残すための結婚はなくなると言ったのでした。
復活した者は、だれだれの夫、だれだれの妻ではなく、同じ神の子となります。神様との関係、神の子同士の新しい愛の関係に入れられます。だからと言って、天国において、夫婦、兄弟、友人、親子が見知らぬ者同士になるのではありません。それぞれ、新しい関係、新しい交わりが始まるのです。それをイエス様は、「天の御使いたちのようです」と語りました。私たちは、御使いのようにすばらしい、栄光に満ちた存在になるというのです。
■生きている者の神
サドカイ人に対するイエス様の2つ目の答えは、サドカイ人が信じていたモーセの律法から語りました。
26それに、死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。
「柴の個所」とは出エジプト記3章にあります。そこは、モーセがエジプトから追われて逃亡生活を40年間過ごしていた時に、神様がモーセに「燃える柴」の中に現れ、エジプトにもう一度帰って、イスラエルの民を率いてエジプトから脱出するように言われた場面です。
その時、神様はご自分を「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とおっしゃいました。モーセにとって、先祖である「アブラハム、イサク、ヤコブ」は何百年も前の人でした。
神様はアブラハムに、アブラハムの子孫を空の星のように、海の砂のように数え切れないほど増え広がり、そしてカナンの地を与えると約束されました。
アブラハムの孫ヤコブの時、彼らはエジプトに移住しました。66人の家族でした。それから何百年、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫は大人の男子だけで60万人以上に増えていました。しかし彼らは、その時エジプトの奴隷となっていたのでした。
何百年ぶりにモーセに現れた神様は、昔むかしに死んでしまって今は地上にはいない「アブラハム、イサク、ヤコブ」の神であると宣言してくださいました。それは、今も「アブラハム、イサク、ヤコブ」は生きていて、神様はその人たちの神だとおっしゃったのでした。
27神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」
神様は生きている者の神様です。神様がその人の神様であることは、今生きているこの時も、地上のいのちが終わった時も、死んだ後も、神様によって選ばれ、神様がその人を救いの中に入れた者は、永遠のいのちが与えられるのです。私たちは永遠のいのちが続くので、神様は私たちの神であり続けるのです。
神様は、私たちの生まれる前から私たちの神様であられました。私たちの地上の歩みが始まり、ある時、イエス・キリストを知って、キリストを救い主として信じ、機会が与えられて洗礼を受ける恵みが与えられました。その時、私たちは新しいいのちが与えられた者、新しく造られた者となりました。
コリント人への手紙第2、5:17 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
私たちは信仰をいただいた時に、新しく生まれ変わり、新しいいのちが与えられました。その新しく造られたいのちは、永遠のいのちの始まりでした。私たちは、キリストを信じた時に新しくされ、その時から永遠のいのちによって生きています。そのいのちによって、地上を生かされています。だから私たちの歩みに、喜び、感謝、平安があるのです。
しかし、地上の喜びの歩みは、天国の喜びのほんの一部にすぎないのです。私たちは、天国での永遠のいのちに生きる喜びを目指し、そして再びイエス様がおいでになる時に与えられるこの体の復活を信じて歩んでいます。
私たちは今日も、神様が約束された永遠のいのちを生き、復活の希望をもって歩みたいと思います。また続く聖餐式を通して、天の御国でイエス様と共に住まう喜びを新たにしたいと思います。
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