ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2009年10月18日


2009年10月18日 主日礼拝説教
「ダビデの主キリスト」(マルコの福音書12章35節〜37節)

■はじめに
 イエス様がエルサレムに入城されてからの出来事を読んでいます。先回は、「一番大切な命令は何か」について律法学者から質問され、イエス様が答えられたところをお読みしました。そして、「それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者がなかった」のでした。
 そこで、今度はイエス様のほうから、メシヤの称号であった「ダビデの子」について律法学者に問いかけることになります。

■ダビデの子

35イエスが宮で教えておられたとき、こう言われた。「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子と言うのですか。

 キリストがダビデの子孫から生まれ、「ダビデの子」と呼ばれるという預言は、旧約聖書にたくさんありました。ひとつだけ読みます。

エレミヤ書23:5「5 見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行う。」

 目の見えない物ごいバルテマイは、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」(マルコ10:47)と叫びたてました。そのように、だれもが「キリストはダビデの子孫として生まれる」と信じていたことを、イエス様が改めて「どうしてキリストをダビデの子と言うのか」と問いかけたのでした。
 イエス様はダビデの詩篇110篇1節を引用されました。

36ダビデ自身、聖霊によって、こう言っています。『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』37ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どういうわけでキリストがダビデの子なのでしょう。」大ぜいの群衆は、イエスの言われることを喜んで聞いていた。

 詩篇の表題は「ダビデの賛歌」です。ダビデがこの詩篇の作者であり、ダビデが「私の主」と言っているこのお方はキリストであると、当時の律法学者たちも信じていました。
 ここに出てくる「主」は、ギリシヤ語も日本語も同じ「主」ですが、旧約聖書の詩篇、ヘブル語では違う「主」を使っています。

詩篇110「【主】は、私の主に仰せられる。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。」

 最初の「主」は、主なる神様を表す字が使われています。新改訳の旧約聖書ではゴシック文字の「主」と訳されています。2番目の「主」は、主人を表す意味の字が使われています。「主なる神様は、私ダビデの主に仰せられる」ということです。

■ダビデの主
 ダビデが「私の主」と呼んだお方は、神の右に座すお方でした。「右の座」は、代理者としての権限を持っています。「着いていなさい」とは、中央に座る神様の権限を行使し、しっかりと統治しなさい、という意味です。キリストは死からよみがえり、天に昇り、神の右の座に着いておられ、今は、この世界を父なる神と同じ権限によって世界をご支配くださっておられます。
 そして、世の終わりに神様が「あなたの敵をあなたの足台とするまで」、キリストが神の右の座に着いておられると語っています。「あなたの敵」とは、キリストの敵であるサタンとその配下にいる者たちのことです。これは、終わりの時にすべての悪の力が滅ぼされ、キリストが完全な勝利者になることを預言しています。
 ダビデは、自分から出るダビデの子孫を「私の主」と呼びました。イエス様はこれによって、救い主キリストは「ダビデの子」と呼ばれるだけの者でなく、主と呼ばれる存在、「神の子」であることを知らせたかったのでした。

■待ち望まれていた「ダビデの子」
 ユダヤ人たちは、イエス様が生まれる600年前に国が滅ぼされ、「バビロン捕囚」という苦難を味わいました。以後、彼らは自分たちの王を持つことはなかったのでした。ヘロデ王家も他民族の王でした。
 それで彼らは、聖書の預言のように、まもなくダビデの子孫が王としてやってくることを期待しました。現在イスラエルは、ローマ帝国の支配下に置かれていました。人々は、自分たちを苦しめている敵・ローマを打ち破り、イスラエルに独立をもたらす地上の王、キリストを待ち望んでいました。それがイエス様にかけられた期待でした。
 一般民衆は、イエス様こそキリスト、「ダビデの子」であり、ローマを駆逐するために、先頭に立って立ち上がってくださるお方であると信じました。それでイエス様は、ご自分のことを人々に知られることに慎重でした。むしろ、口止めをなさいました。
 イエス様の生涯で、その機運が一気に高まったのが5000人のパンの給食の時でした。その時も、イエス様はご自分の使命がこの世のパンを与えることではなく、ご自分が「いのちのパン」となって、そのパンを食べる者、信じる者に永遠のいのちを与えるとお話ししました。そのあと多くの人がイエス様につまずき、イエス様のもとを去っていきました。
 そして今、イエス様はろばの子に乗ってエルサレム入城されました。イエス様は民衆から、「今こそダビデの子がエルサレムに来られた」と熱狂的に迎えられました。そこでイエス様は、この詩篇を引いて、ご自分は「ダビデの子」と呼ばれるような地上的、民族的なキリストではないことをもう一度示そうとされました。
 イエス様の救いは、政治的、物質的、経済的な解決によってもたらされるものではありませんでした。このあとイエス様は、捕らわれることになりますが、その裁判の時、「わたしの国はこの世のものではない」とローマ総督ピラトの前ではっきり語りました。

ヨハネの福音書18:36「イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」」

■すべての人の主
 もうひとつの意味もありました。それは、イエス様がダビデの子ではなく、ダビデの主であることを示すことによって、イエス様の救いがユダヤ人だけの救い主ではなく、すべての人の救い主であることを明らかにされたのです。
 イエス様は、そのような思いをもって、この詩篇を引用されましたが、弟子たちはそのことが理解できませんでした。しかし、イエス様の十字架、復活、昇天後、イエス様の十字架から50日目のペンテコステに、聖霊が弟子たちに与えられました。その時、ペテロは群衆にこう語りました。ペテロは、はっきりと、今イエス様が何をなされたのか、どこにおられるのか、今何をしておられるのか、これから何をされるのか理解できたのでした。

使徒の働き2:34−36「ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。『主は私の主に言われた。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。』ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」」

 キリストは主でした。神の子でした。今や、ダビデが預言したように、イエス様は神の右に座しておられます。ペテロは、そのお方を、あなたがたは十字架につけたと迫ったのでした。

■十字架
 イエス様とユダヤ教指導者との論争はここまででした。彼らにできることは、もはや論争ではなく、政治的な力を使ってイエス様を葬り去ることだけでした。そうなることも、イエス様のうちにはすでに決められていたことでした。

マルコの福音書10:33−34「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」」

 神様は、私たちのために、見える形で「ダビデの子」イエス・キリストとして、この世にお生まれくださいました。人のかたちを取られた神の御子キリストは、十字架にかかり、私たちの罪を代わりに負ってくださり、復活されたお姿を弟子たちに現されて、神の御子であることを示されました。
 イエス様はこの時、この世の国ではない、この世をも支配する神の国の王となられたのでした。私たちは、このキリストを信じて、これからも歩みたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2009年10月18日