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2009年10月25日 主日礼拝説教
「愛の心をささげる」(マルコの福音書12章38節〜44節)
■はじめに
イエス様は神殿の庭におられ、ユダヤ教指導者たちから質問に答え、人々にお話しをされているところを、11章から6回にわたって取り上げてきました。先週イエス様は、当時の人たちが考えていた「ダビデの子キリスト」について、キリストは「ダビデの子」であるがまたダビデの主、神の御子であられることを人々にお話しなさいました。
今日からは、ユダヤ教指導者や民衆ではなく、弟子たちに教える場面に移っていきます(ルカ20:45参照)。
■律法学者について
38イエスはその教えの中でこう言われた。「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが大好きで、39また会堂の上席や、宴会の上座が大好きです。40また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」
イエス様は、律法学者たちの生活を批判されました。
これらはみな、自分の地位を見せびらかしたり、人々からの尊敬を求めたり、自分の信仰深さを見せようとすることでした。そのような醜い姿をイエス様は批判したのです。
そして「こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです」とお話しなさいました。イエス様は弟子たちに、このような指導者にならないようにとお話しなさったのです。さらにイエス様は、献金をしていたやもめから教えられました。
■金持とやもめの献金
41それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。
この献金箱は、ラッパのような形をしていたと言われています。投げ入れやすいし、入れたお金の音が大きく響いたからです。
金持ちたちが大金を投げ入れていました。それはありあまる中からのささげ物であり、人々が見ている中での、「見え」のためにささげる献金でした。多くの金持ちが次々と献金する中、そこへ貧しいやもめがやって来ました。
42そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。
レプタ銅貨は、貨幣のうち最も小さいものでした。レプタはデナリの128分の1、コドラントは64分の1に当たります。1デナリは1日働いて得ることができる賃金でした。1万円の64分の1は156円になります。
おそらく、やもめが献金箱に入れても、だれも注意を払わなかったことでしょう。しかし、それをイエス様は、この貧しいやもめがささげたレプタ2つを見ておられました。
■あるだけを全部、生活費の全部
43すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。44みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」
イエス様は、弟子たちを近くにお呼びになりました。何事かと思って近寄ると、イエス様は言われました。「まことに、あなたがたに告げます。」まことにとは「アーメン」ということばが使われます。「この女は、どの人よりもたくさん投げ入れました。乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです」と言われました。
やもめがささげたものは、彼女の「あるだけを全部、生活費の全部」でした。イエス様は、神殿でささげ物をしていた群衆の中、このやもめこそ最大、最高のささげものをしたと見られたのです。
「生活費」とは、ギリシヤ語で、「一生」「生涯」「生活」とも訳せることばです。「生活費」をささげるとは、彼女の「生活」「一生」を神様にささげたのであり、神様と歩んでいる思いを献金によって表したのでした。それをイエス様は見てくださいました。
これだけささげたという誇りや、あとはどうしたらよいだろうかという心配も、このやもめには関係ないことでした。彼女はただ、神様にささげ物をしたかったのであり、神様の恵みの中にいることを感謝したかったのでした。
■神様により頼む
イエス様は弟子たちに、このやもめの献金をとおして、私たちに対する神様の温かいお取り扱いを教えてくださいました。
まず、このように神様に頼って生きる者に、神様は何を約束してくださっているでしょうか。それは、私たちは一日一日を神様に生かされて生きていけるのであり、それだけの祝福と恵みを神様が下さるということです。
このやもめにとって、レプタ2つは「彼女の持っていたすべて」でした。そのとき持ち合わせていたもの全部でした。それをささげても、彼女は神様がすべてを備えてくださる。明日のことを思い煩うことがなく、必要なものはすべて与えられると信じていたのです。
彼女は、生活のすべてを神様により頼むことを知っていました。神様は、豊かな祝福とあふれるばかりの恵みを下さるお方です。やもめは、そのことを日々の生活において経験していたのです。だから彼女は、そのとき持っていたものすべてを自分の心としてささげることができたのでした。
マタイの福音書6:25,33「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。……だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」
■愛の心をささげる
イエス様がレプタ2つをささげたやもめを喜ばれたのは、「持っているもの」すべてささげたという行いではなく、レプタ2つをささげたその心、「すべての生活をささげる」という神様への愛の心にありました。
それはまた、この世で小さな者を、取るに足りない者を神様が顧みてくださることを知った感謝の心から出た行為でした。
コリント人への手紙第1、1:28−29「また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神様は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。」
このやもめは、一日一日を神様に生かされている。その信仰によって喜んで生きていけることを知っていました。そして、「この世の取るに足りない者や見下されている者を、神様は選ばれ、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれた」ことを知っていました。だから、神様に心から信頼し、神様によって生かされていることへの感謝と喜びを込めて、レプタ2つのささげ物をささげたのでした。
■イエス様の愛の心
愛の心、それは、十字架への道を進もうとするイエス様が弟子たちに示してくださった愛の心と同じでした。イエス様は、最も高価なものを余すことなくささげ尽くしてくださいました。
ヨハネの福音書13:1「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」
「その愛を残るところなく」の「残るところなく」とは「最後まで」「いつまでも」「完全に」という意味です。その愛を最後まで、どこまでも与え尽くす無条件の愛を弟子たちに、私たちにささげてくださいました。イエス様は、ご自分のいのちをささげて、私たちの代わりに罰を受けるため十字架への道を歩んで行かれたのです。
その十字架の死によって私たちの罪は赦されました。神様の恵みによってそのことを信じることができた私たちは、救われた喜びに満ち、感謝にあふれて歩むことができるのです。私たちに愛の心を与えてくださったイエス様。そして、そのことを喜んで生きる者に、ますます豊かな恵みをくださるのです。その幸いを覚えて、感謝の心をもって、また今週も歩みたいと思います。
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