ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2009年11月1日


2009年11月1日 主日礼拝説教
「最後まで耐え忍ぶ者」(マルコの福音書13章1節〜13節)

■はじめに
 イエス様がこの日、朝早くベタニヤを出られて神殿に向かわれました(11:27)。そして神殿で、権威の問題、税金の問題、復活の問題などをユダヤ教の指導者たちとお話しになりました。
 先週は、イエス様は、献金をしていた貧しいやもめのレプタ二つのささげ物と、その心を見てくださいました。そして夕方になり、神殿を去り、宿舎にしていたベタニヤに帰ろうとされたところから今日の箇所が始まります。

■エルサレム神殿

1イエスが、宮から出て行かれるとき、弟子のひとりがイエスに言った。「先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。」

 帰る途中です。弟子たちは、神殿のすばらしさに感嘆の声をあげました。「何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう」と。彼らは田舎のガリラヤ地方出身であったので、そのみごとな建物に驚いたのです。
 この神殿は、ヘロデ大王によって建て始められました。ヘロデ大王はすでに死に、建設開始からすでに40年以上たっていましたが、まだ完成に至っていませんでした。神殿は入念に造られ、その美しさは目を見張るほどでした。また神殿にあった石柱の高さは4メートルにも達するすばらしいものでした。そのようなことが発掘によってわかっています。神殿の一部が、今も「嘆きの壁」として残されています。

2すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」

 弟子たちは、この神殿のすばらしさに驚嘆し目を奪われていましたが、イエス様は、未来のことに目を向けていました。「石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません」と、神殿がいつかは徹底的に壊されることを預言しました。
 それは、人間の造ったものはいかに壮大で美しくても、いつか必ず滅びるものであり、また神殿は旧約時代の礼拝の場所であり、それが滅び、新しい時代が来ること、イエス様の教えはユダヤ人だけでなく全世界に伝えられ、もはや神殿は不要になることを教えています。

■どんな前兆があるか

3イエスがオリーブ山で宮に向かってすわっておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエスに質問した。4「お話しください。いつ、そういうことが起こるのでしょう。また、それがみな実現するようなときには、どんな前兆があるのでしょう。」

 イエス様と弟子たちはオリーブ山に行かれ、そこに座られました。そこからは、ケデロンの谷を隔てて美しい神殿が見えました。そこに「ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレ」がやって来て、イエス様に「いつ、そういうことが起こるのでしょう。」「どんな前兆があるのでしょうか」と尋ねました。
 ユダヤ人にとって、神殿が滅びる時は世の終わりだと考えていました。そこでこれは、この世の終わりについての質問だったのです。

5そこで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。6わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそそれだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。

 前兆の第1は、「私こそそれだ」と名乗り出す者、自分こそメシヤであると自称する者、にせキリストが現れて、「多くの人を惑わす」と言うのです。

7また、戦争のことや戦争のうわさを聞いても、あわててはいけません。それは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。

 前兆の第2は、「戦争のことや戦争のうわさを聞く」ということです。平和だと思っていた世界は戦争に巻き込まれ、人々の心は不安に襲われます。しかし、「あわててはいけません」。なぜなら「それは必ず起こること」であり、「終わりが来た」のではないからです。

8民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、ききんも起こるはずだからです。これらのことは、産みの苦しみの初めです。

 第3の前兆は「地震、ききん」という自然災害です。自然も「新しい天と地を」生み出すために神様から揺さぶられるのです。しかし、まだこれらはまだ始まりであり、それは「産みの苦しみの初め」です。
 陣痛は苦痛ですが、待ち望んでいた子どもが生まれるという喜びが待っています。神様の約束を信じる私たちにとって、終末を前にした前兆は苦痛ではなく、神の国が実現するという喜びに結びついた苦しみなのです。

9だが、あなたがたは、気をつけていなさい。人々は、あなたがたを議会に引き渡し、また、あなたがたは会堂でむち打たれ、また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされます。それは彼らに対してあかしをするためです。

 第4の前兆は、弟子たち、教会に対する社会からの迫害です。「議会に引き渡」され、裁判にかけられ、刑罰として「会堂でむち打たれ」ます。そして、「総督や王たちの前に立たされ」て、取り調べを受けるというのです。
 このマルコの福音書が書かれたころは、ローマのネロ皇帝の時代です。ローマに大火が起こり、その責任をキリスト者に押しつけ、キリスト者は殺されていきました。しかし、それが「彼らに対してあかしをする」、福音を証しする機会になるというのです。

10こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。

 そして、このような迫害と証しを通して、「福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられ」ます。それが、第5の前兆です。
 この世からの迫害と、内からの背教の中で福音が汚され、神のことばが押し込められてしまうような状況のなかで、福音があらゆる民族に伝えられていくのです。

■迫害の中で
 ここからイエス様は、弟子たちの不安を取り去るために約束をしてくださいました。

11彼らに捕らえられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。

 迫害にあった時、「捕らえられ、引き渡されたとき」にも心配はいらないのです。弟子たちは、その時「自分に示されることを」話せばいいのです。それは、話すことは神様が示してくださり、しかも「話すのはあなたがたではなく、聖霊」だからです。聖霊なる神様は、必要なとき特別なときに働いてくださるお方です。

12また兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを死に至らせます。13また、わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。

 悲しいことに、迫害の時には肉親のきずなも断ち切られることがあるかもしれません。そして、この世の者たちから信じる弟子たちに、「福音を信じている」という理由だけで反感が向けられるのです。
 しかしそのような中でも、主の恵みが約束されています。「最後まで耐え忍ぶ人」は救われるのです。それも、神様が支え、神様が弟子たちを担ってくださるから、弟子たちは最後まで耐えることができ、そして救われることができるのです。

■世の終わりに対して
 この世のものが崩壊していく。それは世の終わりのしるしとなりますが、世の終わりそのものではありません。また世の終わりは人間の熱心さや、人間の破壊によって早められるものはありません。私たちはそのことを見る霊的な正しい目を持つことが必要です。
 ですから私たちは、どんなことが起こっても、惑わされてはいけません。ただひたすら神様を信じ、神様に従いなさいと教えられています。

テモテへの手紙第2、4:8「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」

 この「主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださる」というすばらしい約束のゆえに、私たちは平安が与えられます。私たちは神様の前に立つ準備をいつもしている必要があります。この世にいる間、神様のお会いし続けるのです。
 私たちは、毎週の礼拝において、日々の信仰生活において、みことばを読み、祈りをささげることで神様にお会いします。そして今日は、天国を垣間みさせてくれる聖餐式を通して、私たちは終わりの日を待つ準備としたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2009年11月1日