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2009年11月15日 主日礼拝説教
「目を覚ましていなさい」(マルコの福音書13章28節〜37節)
■はじめに
マルコの福音書13章は、これから起こる世の終わりについて、イエス・キリストの再臨について語っています。
弟子たちは、エルサレム神殿のすばらしさに驚きの声をあげました。しかし、イエス様はどのような立派な建物も、やがて崩れ去る時が来ることを教えられました。イエス様は、弟子たちの問いに対して終わりの日の前兆について語り始めました。7つの前兆と、それに続くイエス様の再臨が語られました。今日は、その時を待つ弟子たちの心構えについて、2つのたとえをもって語られます。
1つ目のいちじくの木のたとえは、それが近づいている。それは必ず来る、ということ。2つ目の家の主人が旅に出て、いつ帰るかわからないというたとえは、それがいつかわからないから目を覚ましていなさい、ということです。
■いちじくの木のたとえ
28いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。
いちじくは、この地方ではありふれた木で、聖書にはよく出てくる植物です。冬に葉を落とし、葉が出てくるのが5月か6月ごろです。いちじくの葉が出ると、夏がもうすぐやってくることがわかりました。そして、あっという間に、それこそ突然夏になるのでした。
これは、前兆が始まったら、終わりの日、イエス様の再臨が突然やってくることを表しています。
また夏は収穫の季節です。イエス様はご自身の再臨の時を、葉が枯れ、葉が落ち始めた冬ではなく、いのちあふれる、夏の収穫の時として表現されました。夏は最も喜ばしい時、収穫の歌声で満ちている時です。
29そのように、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。
「これらのことが起こるのを見たら」とは、今まで述べてきた前兆を指します。人の子であられるイエス様の来臨が近づいたのです。戸口まで来ていると、イエス様は、それがごく身近に迫っていると教えられました。
30まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。
「まことに」は大切なことを宣言する時に使います。終わりの時の前兆が全部起こってしまうまで、「この時代」つまり、イエス様が生きていた時代は「過ぎ去りません」というのです。
このようにイエス様がおっしゃったのは、イエス様は、自分たちの生きている時にキリストの再臨があるということを信じなさい。そのような緊張感のなかに過ごすようにと言われたのです。確かに、最初の弟子たちは、世の終わり、イエス様の再臨は自分たちの世代、間近にあると意識していました。
31この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。
神の被造物、神様が造られた天地は変化し、やがては滅び去ります。しかし、神であるイエス様のことばは決して滅びません。イエス様のことばは、天地の持続することよりもなお確実だというのです。
この天地の世界に私たちの生活がすべて含まれています。それが、やがては過ぎ去っていくのです。しかし、主のことば、救いのことばは絶対に変わらない、永遠、不変の真理なのです。イエス様は、ご自身のことばの権威にかけて、その日が必ず来ることを保証されました。
■旅に出た主人のたとえ
2つ目は、それはだれも知らないということです。
32ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。
終わりの日がいつなのか、それは、父なる神様のみが知っておられ、天の御使いも知らない。子であるイエス様も知らないというのです。
それは、イエス様にも知らないことがあると言っているのではなく、イエス様が知ろうと思えば知ることができましたが、弟子たちが知りたがっている、その日がいつであるか関心がない。だから弟子たちに「だれも知りません」。教える必要もないとおっしゃったのでした。それほど、その日がいつかを詮索することはない。してはいけないとおっしゃったのでした。
33気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。
弟子たちがすべきことは、その日がいつであるかわからないので、絶えず「目をさまし、注意して」いなければならないということです。これは現在命令形で「目を覚まし続けよ」、一時的ではなく、絶えずそうし続けよということです。
34それはちょうど、旅に立つ人が、出がけに、しもべたちにはそれぞれ仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目をさましているように言いつけるようなものです。
弟子たちは、主人に仕事を割り当てられたしもべです。弟子たちは、その仕事の責任、与えられた務めをきちんと果たすのです。
35だから、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、わからないからです。36主人が不意に帰って来たとき眠っているのを見られないようにしなさい。
ある時、主人が旅から不意に帰ってくるのです。
37わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです。目をさましていなさい。」
これは、4人の弟子(ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレ)に話し始めたことでしたが、「すべての人」が知るべき事柄でした。すべての人が、イエス様の再臨を待ち望んでいなければならない。すべての人が、それぞれの立場で目を覚まし、待っていなさいというのです。
■目を覚まし続ける
終わりの日は、それがいつであるか御子さえも知ろうとしないのに、私たちは終わりの日を予見する者に惑わされてはいけません。だれかが時を予測されてもあわててはいけません。
しかし、その時はわからない、知らないとしても、必ず来るのですから、油断しないように、目を覚まし続けなさい、というのです。
テサロニケ人への手紙第1、5:5−11「あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。」
終わりの時は、希望のある終わりの時です。「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」
聖書が書かれた時代は、迫害の中にあり、終わりの日が、イエス様の再臨がすぐにでも起こることを期待させた時代でした。そのようななか、終わりの日が近いから仕事をしても仕方ないと、締まりのない生き方をした人たちがいました。私たちがすることは、目を覚まし続けていることです。そして私たちは「今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合う」ことです
私たちは目を覚まして眠らないためにも、このように教会に集まること、みことばに聞くことが大切であることを教えられます。
ヘブル人への手紙10:25「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」
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