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2009年12月6日 主日礼拝説教
「主の晩餐」(マルコの福音書14章17節〜26節)
■わたしを裏切ります
イエス様が用意されたエルサレムの2階の広間に、イエス様と弟子たちが集まり、過越の食事が始まりました。
17夕方になって、イエスは十二弟子といっしょにそこに来られた。18そして、みなが席に着いて、食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。」
食事の最中、イエス様はご自分を裏切る者がこの中にいることを指摘されました。
19弟子たちは悲しくなって、「まさか私ではないでしょう」とかわるがわるイエスに言いだした。
イエス様はこのことをユダに告げましたが、弟子たち一人一人にも同じようなことが起こる可能性のあることを思い起こさせました。
20イエスは言われた。「この十二人の中のひとりで、わたしといっしょに鉢に浸している者です。21確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」
イエス様は、ユダにきよくない思いがあることをお知りになりました。イエス様のこのことばは、ユダに対する最後の悔い改めのチャンスであったでしょう。しかしユダはそれを退けました。このあとユダはどういう行動をとったのでしょうか。
ヨハネの福音書13:27、30「彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼に入った。そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」……ユダは、パン切れを受けるとすぐ、外に出て行った。すでに夜であった。」
■パンを取り
ユダが去った後、イエス様はこの食事の目的であった聖餐式制定のことばを語ります。
22それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」
イエス様は、まずパンを取り上げ、神様に感謝をささげてから、パンを裂き、このパンがご自分の体を表すと言われました。パンは、弟子たちのために裂かれる、弟子たちのために犠牲となるイエス様ご自身を示していました。
これは過越の食事でした。昔、出エジプトの時、イスラエルの人たちは子羊を殺し、その血をかもいと門柱に塗りました。それによって、イスラエル人たちは、その血によって神のさばきから救われました。その血を見て神様はさばきを過ぎ越されたのです。それを記念して、毎年、犠牲の子羊が殺されてきたのでした。
神様は、子羊が殺されることによってイスラエルの人たちを救われたように、この時、十字架で殺されるイエス様によって、イスラエルだけではない、すべての人が救われるようにしてくださったのでした。
■さかずきを取り
23また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。24イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。
パンには、裂かれることから「いけにえ」「犠牲」という意味がありましたが、「流される血」には2つの意味がありました。罪の赦しと契約です。
罪が赦されるためには「血が流される」必要がありました。神殿においてたくさんの動物が殺され、犠牲の血が祭壇に注がれてきました。それは個人の罪のため、家族の罪のため、国家の罪のため、その赦しのためでした。しかも繰り返し、日を定めて毎月、あるいは年に1回犠牲がささげられたのでした。
しかしイエス様は、この晩餐の席で、ただ1度の十字架によって流されるイエス様ご自身の血がそれにとって代えられると語られたのでした。
ヘブル人への手紙9:12−14「また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」
2つ目の契約という意味についてです。血は「契約」を示すものでした。モーセが神様から十戒を与えられたとき、神様は民と契約を結ばれました。子牛をいけにえとしてささげ、「律法を行います」と答えた民に、モーセは子牛の血を注ぎかけました。これをモーセは「契約の血」と呼びました。
出エジプト記24:8「そこで、モーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った。「見よ。これは、これらすべてのことばに関して、主があなたがたと結ばれる契約の血である。」」
イエス様は動物の血ではない、イエス様ご自身が流される血をもって新しい契約を結ぶとおっしゃいました。イスラエルと神様が結ばれた古い契約が破棄され、新しいイスラエルの民(それは、イエス・キリストを救い主として信じる者たち、新しく建てられる教会)と新しい契約をご自身の血によって結ばれるのです。それはエレミヤ書31章に預言されていました。
エレミヤ書31:31−33「見よ。その日が来る。――主の御告げ――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」
■天国の祝宴
25まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
4つ目の意味です。まもなく十字架にかかろうとしているイエス様は、ご自身がなさる過越の食事がこれで最後になることを告げました。これは、イエス様が天国で弟子たちと食事をするまでは、もう飲食はしないということです。
聖餐式は、天国でイエス様と共に行われる祝宴を映し出しています。私たちが聖餐式をあげるごとに、そのことを覚え、天国の希望を新たにするのです。
■魂を養う食物
5つ目の意味です。私たちが聖餐式でパンを食べ、杯を飲み続けることによって魂のいのちを養うことになるのです。
ウェストミンスター小教理問答書96「主の晩餐とは、何ですか」「主の晩餐も一つの礼典です。その時、キリストの指定に従って、パンとぶどう酒を与え、また受けることによって、キリストの死が示されます。また、ふさわしい陪餐者が、身体的、肉的な仕方ではなく、信仰によって、キリストの体と血を、キリストのあらゆる祝福もろとも分け与えられて、霊的に養われ、恵みのうちに成長するのです。」
キリストを信仰によって自分の肉となり血となるように、聖餐によって「あらゆる祝福もろとも分け与えられる」のです。それによって、「霊的に養われ、恵みのうちに」成長させられるのです。このように、聖餐式を通してキリストを自分の身近に覚えることができるのです。このような思いをもって、今日の聖餐にあずかりたいと思います。
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