ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2009年12月27日


2009年12月27日 主日礼拝説教
「聖書のことばが実現するためです」(マルコの福音書14章43節〜52節)

■はじめに
 イエス様は、ご自分の生涯が神様のみこころのままをたどっていることをいつも自覚していました。
 クリスマスの日にユダヤのベツレヘムに生まれるということ。そのとき悲しいことにヘロデ王によって子供たちが殺されるということ。ヨセフ、マリヤは、ヘロデからの危険を避けて幼子イエス様を連れてエジプトへ行くこと。これらみな、聖書のことばのとおり実現したのでした。

■ユダの口づけ

43そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが現れた。剣や棒を手にした群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、律法学者、長老たちから差し向けられたものであった。

 イエス様が弟子たちと話しているところに、剣や棒を持った一団がやってきました。先頭に、数時間前、最後の晩餐の席を抜け出したユダがいました。
 ユダは、その夜、イエス様たち一行がいつものように食事の後、ゲツセマネの園に行くことを知っていて、ここに向かってきたのでした。すでに真夜中です。この時間、この場所なら、民衆の目に触れることはありません。
 「群衆」は、ユダヤの指導者たちが派遣した者たちと、ローマ兵の一団(ヨハネの福音書による)も加わっていました。たったひとりを捕まえるにしては多すぎるほどの人数でした。

44イエスを裏切る者は、彼らと前もって次のような合図を決めておいた。「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえて、しっかりと引いて行くのだ。」45 それで、彼はやって来るとすぐに、イエスに近寄って、「先生」と言って、口づけした。

 やってきた一団は、ユダの合図を待っていました。暗い中、目指すイエス様がどこにいるか彼らにはわからなかったからです。
 ユダの口づけする人がその人であると打ち合わせがしてありました。ユダは、最後まで弟子のひとりであることをイエス様や仲間の弟子たちに演技しようとしました。親しげに近づいて捕まえようとする合図の口づけは、裏切りの口づけでした。
 原文では「繰り返し口づけをした」ということばが使ってあります。このことばは、ユダの口づけ以外は、放蕩息子が帰ってきた時にお父さんが息子に対してした喜びの口づけ。パウロがもう二度と会えないことになるエペソの長老たちとした別れの口づけ。罪の女がイエス様の足を涙でぬらし、髪の毛でぬぐい、その足に罪赦されたことの感謝を表した口づけの3か所だけに使われていることばです。
 ですから、このとき、ユダはしっかり抱きしめて口づけをしたのでした。もう逃がさない、捕まえて離さないというユダの気持ちをも表しているようです。

■捕らえられるイエス様
 イエス様は、自ら進んで十字架に赴こうとされていました。イエス様の気持ちは、ゲツセマネの祈りの「どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」に現れていました。

46すると人々は、イエスに手をかけて捕らえた。47そのとき、イエスのそばに立っていたひとりが、剣(つるぎ)を抜いて大祭司のしもべに撃ちかかり、その耳を切り落とした。

 しかし、弟子たちはイエス様のお心、十字架で死ぬこと、人々の罪の身代わりとなって死のうとするイエス様のお心を理解していませんでした。それで、弟子のある者は持っていた剣を抜き、イエス様を守ろうとして「大祭司のしもべ」に斬りつけました。
 「イエスのそばに立っていたひとり」とは、ヨハネの福音書によるとペテロでした。ペテロは正面から切りつけたが暗かったかためか、あわてたためか、手元が狂って耳を切り落とすことになってしまいました。イエス様は「やめなさい」と言われ、このしもべの耳をいやされたことがルカの福音書に書かれています。

■聖書のことばが実現するためです

48イエスは彼らに向かって言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。49わたしは毎日、宮であなたがたといっしょにいて、教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕らえなかったのです。しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです。」

 今まで、神殿の庭で公然と活動していたのに、彼らはなぜこのように「強盗にでも向かうように」捕らえようとしたのでしょうか。イエス様は、これは「聖書のことばが実現するため」と言われました。
 このときイエス様の思いにあった聖書のみことばは、イザヤ書53章であったでしょう。救い主は罪を負わせられて苦難の中を歩み、死んでいくという預言のことばです。

イザヤ書53:7−8「彼(キリスト)は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。」

イザヤ書53:12「それゆえ、わたし(神)は、多くの人々を彼(キリスト)に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる(十字架の死が敗北ではなく勝利であること)。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである(罪人のひとりとなること)。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」

 そして、いま祭司長、律法学者から遣わされた群衆にご自分が捕らえられることによって、実際にイザヤ書のことばがこの身に実現し、ご自分が罪を負って死に行くことを明らかにされたのでした。

■逃げ出した弟子たち

50すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。

 イエス様が、最後の晩餐が終わって外に出た時に言われたおことばが実現しました。

マルコの福音書14:27「イエスは、弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる』と書いてありますから。」

 これも聖書のことばの実現でした。

ゼカリヤ書13:7「剣よ。目をさましてわたしの牧者を攻め、わたしの仲間の者を攻めよ。──万軍の主の御告げ──牧者を打ち殺せ。そうすれば、羊は散って行き、わたしは、この手を子どもたちに向ける。」

 そして、最後の一文です。

51ある青年が、素はだに亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕らえようとした。52すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた。

 ここに無名の青年が登場します。この青年は、この福音書を書いたマルコ自身と考えられています。マルコは、当時、エルサレムの有力な信徒であったマリヤの息子であり、まだ10代後半の青年でした。その後、マルコはペテロの付き人として歩むようになり、そのペテロから聞いたことばをマルコの福音書としてまとめたのでした。
 なぜこの時マルコが素肌であり、裸で逃げ出したのでしょうか。伝えられているところによれば、最後の晩餐はマルコの家で行われました。マルコは、イエス様たちの晩餐が終わって出かけられたあと家で休んでいました。その時、イエス様を捕らえるための群衆がゲツセマネに向かったという情報が入りました。それでマルコは、あわてて素肌に亜麻布をまとっただけでイエス様のところに知らせに走りました。ところがすでに遅く、イエス様は捕まってしまい、弟子たちも逃げてしまったあとでした。それでもなおマルコは、イエス様の後をついていこうとしました。ところが、だれかに仲間の一人だととがめられ捕らえられそうになったので、はおっていた亜麻布を脱ぎ捨て裸のまま逃げ出したのでした。
 これは、マルコも逃げてしまった失敗を記したのでした。そのあと書かなければならない、自分の先生であったペテロの失敗の前に、自分も失敗者であったことを告白したのでした。

■苦難の中を歩むイエス様
 このようにすべての弟子たちによって見捨てられたイエス様は、イザヤ書53章にあるような苦難の中を歩む救い主として、私たちすべての者の罪を赦し、そこから救い出してくださるために、十字架への道を歩んでいくことになります。
 後に弟子のペテロはユダヤ議会の前で、そのことを証ししました。

使徒の働き3:18−19「神は、すべての預言者たちの口を通して、キリストの受難をあらかじめ語っておられたことを、このように実現されました。そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。」

 今日も、聖書のことばが実現されるため、神様のみこころのとおりに歩まれたイエス様を覚え、感謝いたします。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2009年12月27日