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2010年1月3日 主日礼拝説教
「ほむべき方の子キリスト」(マルコの福音書14章53節〜65節)
■はじめに
イエス様は、最後の晩餐を終え、ゲツセマネの園で最後のお祈りをなさいました。そこで、十字架を前にして「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」と祈られました。
祈りが終わって弟子たちと話している時に、祭司長、長老、律法学者たちから差し向けられた群衆がやってきました。先頭にはイスカリオテのユダがいました。ユダの合図の口づけにより、イエス様が捕らえられました。
■一致しない証言
53彼らがイエスを大祭司のところに連れて行くと、祭司長、長老、律法学者たちがみな、集まって来た。54ペテロは、遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の庭の中まで入って行った。そして、役人たちといっしょにすわって、火にあたっていた。
イエス様は、名前は出ていませんがその時の大祭司カヤパのところに連れて行かれました。本来、会議は夜には開かない慣習だったので、これは非公式のユダヤ議会でした。
ペテロは、イエス様の後から遠く離れて、「大祭司の庭の中まで」入ってきました。ペテロは、役人たちといっしょになって火にあたり、裁判のなりゆきを見守っていました。
55さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える証拠をつかもうと努めたが、何も見つからなかった。56イエスに対する偽証をした者は多かったが、一致しなかったのである。
彼らは、イエス様を死刑にするための証拠をあげようとしました。しかし、一致する証言が得られませんでした。律法によれば、死刑にする場合、2人か3人の証言が一致していなければ有効ではありませんでした。
申命記17:6「ふたりの証人または三人の証人の証言によって、死刑に処さなければならない。ひとりの証言で死刑にしてはならない。」
57すると、数人が立ち上がって、イエスに対する偽証をして、次のように言った。58「私たちは、この人が『わたしは手で造られたこの神殿をこわして、三日のうちに、手で造られない別の神殿を造ってみせる』と言うのを聞きました。」59しかし、この点でも証言は一致しなかった。
「神殿を壊すと言った」という有力な証言が出ました。確かに、イエス様はそう言われたことがありました。
ヨハネの福音書2:19「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」
このことばはイエス様の体を指して神殿と言ったのであり、これはイエス様が死ぬこと、3日目に復活されることを意味していました。ところが彼らは、このことばが神殿を冒?するものとしたのです。しかし記憶があいまいだったのか、そのことばを聞いた人々の証言も一致しませんでした。
■大祭司の尋問
60そこで大祭司が立ち上がり、真ん中に進み出てイエスに尋ねて言った。「何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。」
証言が一致しないと知った大祭司カヤパは、自らイエス様に質問することによって、何か死刑にする証拠をつかもうとしました。「みんなは、あなたに不利な証言をしようとしているが、本当のところはどうなのか。自分を弁護するために何か言うことはないのか」と。
61しかし、イエスは黙ったままで、何もお答えにならなかった。大祭司は、さらにイエスに尋ねて言った。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」
イエス様は黙っておられました。再度、大祭司は質問します。何か言うことはないのか。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」あなたは「ほむべき方」、神の子、キリストなのですか、救い主なのかと質問したのです。
■わたしは、それです
62そこでイエスは言われた。「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」
このとき、今まで沈黙を守っていたイエス様が初めて口を開かれました。イエス様は「わたしは、それです」と、ご自分がキリストであり、人となった神の子であることをはっきりと言い表しました。そして「人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見る」とはっきりおっしゃいました。これは詩篇110篇とダニエル書7章を引用して言われたおことばです。
詩篇110:1「主は、私の主に仰せられる。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。」」
ダニエル書7:13「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。」
イエス様は、ご自分がまことのメシヤであり、神の右の座につくことにできる権威と栄光を持つ者であり、そして、このわたしが天の雲に乗ってやってくると証しされました。イエス様の復活と再臨のことでした。
それまでは、イエス様はご自分がキリストであることをだれにも話さないようにと命じてこられました。イエス様の不思議なみわざに、群衆が驚いて、「この方のなさったことはみなすばらしい。耳の聞こえない者を聞こえるようにし、口のきけない者を話せるようにしてくださった」と言った時も、シモン・ペテロが「あなたは救い主キリストです」と告白した時も、「自分のことをだれにも言わないように」とお命じになりました。
しかし、ここにいたってイエス様は、もうご自分がどのような者であるかを隠す必要がなくなりました。ご自分は、救い主キリストとして十字架にかかろうとしておられたからです。
■死刑の判決
63すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「これでもまだ、証人が必要でしょうか。64あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです。どう考えますか。」すると、彼らは全員で、イエスには死刑に当たる罪があると決めた。
「神をけがすこのことば」とは、イエス様がご自分を神の子であると言ったことを指していました。イエス様のことばは、議会の全員が聞いていました。これ以上の証人は不要です。「死刑」と議会は判決を下します。
レビ記24:16「主の御名を冒?する者は必ず殺されなければならない。全会衆は必ずその者に石を投げて殺さなければならない。」
しかし、正式には、死刑の判決はローマの総督によって下されなければなりませんでした。
65そうして、ある人々は、イエスにつばきをかけ、御顔をおおい、こぶしでなぐりつけ。「言い当ててみろ」などと言ったりし始めた。また、役人たちは、イエスを受け取って、平手で打った。
この決定によって、「役人たちは」イエス様に近づき、イエス様を侮辱し始めました。イエス様は、役人たちがつばを吐きかけ、平手で打っても、されるままになっておられました。イエス様は、裁判で沈黙を守られました。そして、人々の侮辱を黙って忍ばれました。これによって、イエス様がメシヤであることが明らかになっていったのです。罪のないお方が罪人たちの仕打ちを黙って耐え忍ばれるという旧約聖書の預言が実現したのでした。
イザヤ書50:5、6「神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。」
イザヤ書53:7「7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」
■十字架の死
イエス様は黙っておられました。不法な裁判の時も、つばをかけられ、こぶしで打たれている時も。そして、十字架にかけられ、苦しまれている時も、イエス様は黙ってすべての人の罪を一身に負っておられました。このイエス様が沈黙のなかで成し遂げてくださったことにより、私たちの罪が永遠に赦される道が開かれたのです。
イエス様は私たちの救い主であると、信じることができる人は幸いです。
ペテロの手紙第1、2:22−24「22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」
イエス・キリストが私たちの罪の代わりに十字架で死なれたことを、イエス様がご自分の体と血とをもって私たちの罪を赦してくださったことを覚えて、今日の聖餐式に臨みたいと思います。
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