ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2010年1月31日


2010年1月31日 主日礼拝説教
「私たちを救ってくださるお方」(マルコの福音書15章24節〜32節)

■はじめに
 ピラトから死刑を宣告されたイエス様は、身柄を兵士に渡され、兵士たちからあざけりを受けられました。そして、十字架を背負ってゴルゴタの丘まで歩かされました。途中、クレネ人シモンがイエス様の十字架を代わりに負わされました。シモンにとっては、それがイエス様を信じる機会となり、その信仰は子供たちに受け継がれていったのでした。

■十字架刑
 ゴルゴタの丘についたイエス様は、十字架につけられました。

24それから、彼らは、イエスを十字架につけた。そして、だれが何を取るかをくじ引きで決めたうえで、イエスの着物を分けた。

 十字架刑とは釘で手足を十字架に打ち付けられ、激痛と渇きのなか苦しみながら死んでいく刑でした。その十字架の下でローマの兵士たちは、イエス様が来ていた着物をだれがとるか、くじを引いていました。それは1枚布の下着であったとヨハネの福音書にあります。

ヨハネの福音書19:23−24「さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった。そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」」

 兵士たちが知らず知らずにしたことによって聖書の預言が実現しました。

詩篇22:18「彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。」

 兵士たちはイエス様の十字架のことがわからず、釘づけにされ、苦しんでおられるイエス様の十字架の下で、イエス様の着ていた着物の取り合いで夢中になっていたのでした。

■ユダヤ人の王

25彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。26イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。

 これはピラトが書いた罪状書きでした。このようなみじめな、十字架につけられ死んでいく男がお前たちの王であると、ユダヤ人をあざけったのでした。ピラトは、これを「ヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語」で書き、そこを通るすべての人が読むことができるようにしました。

ヨハネの福音書19:19−20「ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と書いてあった。それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書いてあった。」

 ピラトがこう書くことによって、ピラトの思いを超えて、イエス様が世界の王であることを宣言したことになったのでした。

27また彼らは、イエスとともにふたりの強盗を、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。

 イエス様が王であることを示すかのように真ん中、左右に犯罪人が十字架につけられました。
 十字架に寝かされ釘をうたれ、その十字架が立てられたとき、イエス様は十字架の上から祈られました。

ルカの福音書23:34「そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」」

 イエス様は十字架につけた人々のために祈られました。手足に打たれた釘、額に突きささるいばらの冠。その痛み、苦しみを和らげてくださいと祈るのでなく、十字架につけた彼らのために、何をしているのかわからない彼らの罪の赦しのために祈られました。

■人々の無知とあざけり

29道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。30十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」

 イエス様が神殿を否定したことは、彼らにとって衝撃的でした。神殿を壊す者ということばがののしりのことばに使われます。しかし、それはイエス様ご自身のことを言われたでした。そのことが3日後に、イエス様の復活によって示されるのです。

31また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「他人は救ったが、自分は救えない。32キリスト、イスラエルの王さま。今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。

 「祭司長たち、律法学者たち」もあざけり、ののしりのことばをかけます。いっしょにつけられた2人の強盗も同じでした。イエス様を取り巻くすべての人たちがののしり、あざけりました。こうなることが詩篇22篇に預言されていました。

詩篇22:7−8「私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」」

 祭司長たちが言った「他人は救ったが、自分は救えない」ということばは真実でした。イエス様はご自分を救おうとなさいませんでした。イエス様は「他人を救うため」に、「道行く人々」や「祭司長たち」の罪のために十字架にかかっておられたのでした。

■罪の身代わりの死
 このときイエス様は罪ある人として、父なる神様から死刑を執行される者として立たせられていました。イエス様は、父なる神様が救いに迎え入れようとする人々の罪の刑罰を代わりに受けておられたのです。
 その罪は、父なる神様が愛しておられる人々を天の御国に迎え入れるために妨げとなっているものでした。イエス様は、その罪の刑罰を十字架の死によって代わりに受けてくださいました。
 人々は何もわかりませんでした。ユダヤの民衆も、ユダヤの指導者も、ローマの兵士も、いっしょに十字架につけられたふたりの強盗も。彼らは、十字架が自分たちも含めた、全人類を救うためであることに思いもよりませんでした。
 彼らは「十字架から降りてみろ。われわれは、それを見たら信じるから」と叫びました。見たら信じるということは人間の求める方法でした。イエス様は十字架から降りることができましたが、私たちの罪のために降りようとされなかったのです。彼らは、たといイエス様が十字架から下りたとしても、それは超人的なことをした人として認めるだけで、救い主として信じることはなかったでしょう。彼らには真理を求める心がなかったからでした。
 自分の罪が神様の前ではどんなに愚かで大きいかということ。十字架のイエス様は私たちのためであるということ。イエス様は私たちの罪のために死んでくださったこと。そのことを知らない人たちのあざけりのことばに対するイエス様の答えは、イエス様の祈りのことば「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と、その祈りの後に、黙って痛み、苦しみに耐えた沈黙でした。
 十字架は、イエス様の尊い犠牲と愛がもっとも示された、私たちひとりひとりに与えられた恵みです。

ガラテヤ人への手紙6:14「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」

 私たちはキリストの十字架によって、新しく生きる者となりました。新しく神の国、永遠のいのちの喜びに生きる者となったことを感謝して今日も歩みだしたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2010年1月31日