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2010年3月28日 主日礼拝説教
「天の御国が近づいた」(マタイの福音書3章1節〜12節)
イエス様はヘロデ王に追われ、ベツレヘムからエジプト、そしてガリラヤのナザレへと旅をしました。そして、ナザレで少年時代、青年時代を過ごされました。その時代のことは、マタイは何も触れません。いつしか30年近く時は過ぎ、突然バプテスマのヨハネが登場します。
1そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。
マタイの福音書から読み始める人は、突然何の説明もなくヨハネが登場します。ヨハネの誕生の次第は、ルカの福音書1章で紹介されています。祭司ザカリヤと妻エリサベツの子です。エリサベツとイエス様の母マリヤとは親類同士でした。
「そのころ」とあります。ルカの福音書に、その時のことが書かれています。
ルカの福音書3:1−2「皇帝テベリオの治世の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの国主、その兄弟ピリポがイツリヤとテラコニテ地方の国主、ルサニヤがアビレネの国主であり、アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。」
ヨハネは、旧約聖書の最後の預言者マラキ以来、400年ぶりに現れた預言者でした。マラキまでの預言者は、救い主がやがてこの世界に来てくださることを待ち望みました。ヨハネは、もうすぐいらっしゃる救い主のために道備えをし、イエス様を救い主として人々に指し示す預言者の役割を担ったのでした。
ヨハネは荒野で神様からのことばを聞きました。ヨハネは人々に、罪が赦されるための悔い改めを迫りました。
2「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
「天の御国」は、「神の国」と同じことを表現しているのですが、「天の御国」はマタイ特有の表現です。新約聖書で33回使われていますが、すべてマタイの福音書で使われています。これもユダヤ人読者を意識しているからと言われています。
ユダヤ人は、「あなたは神の御名をみだりに唱えてはいけない」という教えのため、神の名だけでなく「神」ということばも使わなかったと言われています。またユダヤ人はこの地上に神の国ができることを期待していたので、イエス様の教える国は霊的な国であることを示そうとしたからでした。
ヨハネは、問題はユダヤがローマの支配下にあるからではない。またその支配者たちが腐敗しているのでもない。あなたたちはそのことを問題にしているが、本当の問題は自分たちの心の中にある罪だと語りました。その罪を神様に赦していただきなさい。そして、救い主がおいでになるのを待ちなさいと説きました。
3この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われたその人である。
ヨハネの出現は、旧約聖書のイザヤの預言の成就でした。
イザヤ書40:3「荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。」
4このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。
これは、預言者エリヤの服装と同じでした。
列王記第2、1:8「彼らが、「毛衣を着て、腰に皮帯を締めた人でした」と答えると、アハズヤは、「それはティシュベ人エリヤだ」と言った。」
なぜヨハネは、エリヤを思い出させる格好をしたのでしょうか。エリヤは、救い主が現れる前にやってくる預言者と言われていました。
マラキ書4:5−6「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」」
確かにヨハネはエリヤであったことを、イエス様も証言なさいました。
マタイの福音書11:14「あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。」
そのようなヨハネ出現のうわさはイスラエル全土にひろまり、人々がぞくぞくヨルダン川に集まってきました。人々は罪を告白し、ヨハネからバプテスマを受けました。
バプテスマ(洗礼)とはギリシヤ語そのものの表記です。水で洗う、水に浸すという意味の動詞からきたことばです。それでヨハネは、人々から「バプテスマのヨハネ」「洗礼者ヨハネ」と呼ばれるようになりました。
やってきたのは、民衆だけではありませんでした。
7しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。
「パリサイ人やサドカイ人」とは、当時のユダヤ社会の指導者たちでした。彼らは、ヨハネのもとで起こっていることを探りに来たのでした。ヨハネの彼らの罪に対する指摘は厳しく、彼らを「まむしのすえたち」と呼んで糾弾しました。
9『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
「われわれの父はアブラハムだ」などと、自分たちが神の民であることを誇ってはいけない。ユダヤの指導者が神様からのさばきから免れると考えてはいけない。神様は「この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです」。
アブラハムの子孫でない異邦人が救いの中に入れられる時が来ると、ヨハネは語ったのでした。
10斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
12手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」
ヨハネは、神の審判が近づいていることを警告しました。実を結ばない木は切り倒されるのです。しかし、イエス様を信じた人には豊かな実を結ぶことが約束されています。
エレミヤ書17:7−8「主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる。」
11私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。
ヨハネから悔い改めのメッセージを聞いた民衆は、ヨハネが救い主キリストではないかと考えました。しかしヨハネは、自分は救い主ではない。自分は救い主を指し示すために遣わされた者であると告白します。
「はきものを脱がせる」ことは奴隷の仕事でした。ヨハネは、これから来られるお方が「私よりもさらに力のある方で」あることを示しました。そしてそのお方、イエス・キリストは「聖霊と火とのバプテスマをお授けになります」と語りました。
「聖霊と火とのバプテスマ」は、ペンテコステの日に実現しました。
今日は受難週を迎えました。金曜日は、イエス様が十字架にかかられた受難日になります。
神様のみわざは、イエス・キリストの十字架によって完成されました。イエス・キリストが私たちの罪を背負い、十字架で死んでくださいました。そのことを信じる者、イエス・キリストを救い主と信じる者は、罪を赦されてアブラハムの子孫、神の子とされたのです。神様は「石ころ」から約束されたアブラハムの子孫を起こしてくださいました。
イエス・キリストが私たちの罪のために十字架で死なれたことを、イエス様がご自分の体と血とをもって私たちの代わりに神へのなだめの供え物となってくださったことを、私たちが神様から罪を赦されるためにその身をささげてくださったことを覚えて、この1週間を歩みたいと思います。そして来週、喜びをもってイースターの日を迎えたいと思います。
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