ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2010年4月4日


2010年4月4日 主日礼拝説教
「これはわたしの愛する子」(マタイの福音書3章13節〜17節)

■はじめに

 イエス様はナザレで少年時代、青年時代を過ごされました。イエス様はその間、大工の息子として30歳まで両親に仕えて成長されました。ルカの福音書には、イエス様の12歳の時の出来事が描かれています。イエス様は、すでにその年齢で、ご自分と父なる神様との特別の関係を知っておられたことがわかります。
 いよいよ定められた神の時、イエス様の公生涯の幕が開きます。まずバプテスマのヨハネが登場しました。イエス様は公生涯の最初にこのヨハネから洗礼を受けることになります。

■ヨハネの前に立つイエス様

 イエス様はガリラヤのナザレから、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川にやってきました。ナザレから2,3日の道のりです。

13さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。14しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」

 ヨハネは、イエス様に出会ったとたん、このお方こそ自分が道備えをして待っていたお方であることがわかりました。そのように神様がヨハネに示されたのでしょう。ヨハネはイエス様の申し出を断りました。イエス様には悔い改めの洗礼を授ける必要がないとわかったからでした。ヨハネは、イエス様に洗礼を授けることができない。むしろ「私こそ、あなたから洗礼を受けるはず」と言いました。

15ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。

 神の御子がどうしてヨハネが説く「罪の赦しのための悔い改めのバプテスマ」を受けたのでしょうか。イエス様は、あえてそれを強く願われたのでした。「今はそうさせてもらいたい」は、「そうしなさい」という意味です。それは、「すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」という理由からでした。
 「私たち」とは、2つの意味があります。イエス様はヨハネの役割を認め、自分がヨハネの指し示した救い主であることをヨハネに伝えたのでした。さらに「わたしたち」と言って、イエス様は罪ある者たちの側に立たられました。イエス様はすべて私たちと同じようになられたのでした。
 イエス様は、私たちと同じ罪人の一人となってくださいました。公生涯の最初に、ご自分を罪人の一人として位置づけられたのでした。

コリント人への手紙第2、5:21「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」

■天からの声

 ヨハネはイエス様のことばに従い、イエス様に洗礼を授けました。

16こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。

 この時「天が開」かれました。受身形が使われていて、神様が天を開かれたことを示しています。
 イエス様は聖霊を受けられました。これは、これからのイエス様の生涯が聖霊によって導かれていくことを示していました。

17また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

 これは、イザヤ書のことばを反映していました。

イザヤ書42:1「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。」

 イエス様がしもべとしての生涯を歩み始めました。神様は、イエス様がしもべの生涯を喜ぶのです。しもべの生涯とは、イエス様が受難の道を歩み、十字架にかかっていく歩みでした。それは、私たちの罪のためでした。人としてこれから歩み出そうとするイエス様に対する、神様の承認のことば、派遣のことばでした。
 父なる神様がイエス様を御子と宣言され、聖霊なる神様が下られました。イエス様の公生涯は父と御霊の深いかかわりの中で始められたのでした。

■復活されたイエス様(ルカの福音書24章)

 父なる神様が「これはわたしの愛する子」と言われたお方が、ゴルゴタの丘で十字架につけられました。しかし、イエス様はそれで終わりではありませんでした。墓に葬られてから3日目、日曜日の早朝です。マグダラのマリヤたち、女の弟子たち3人が、イエス様が葬られている墓に訪ねたところ、お墓が空になっていること、そして御使いからイエス様がよみがえったことを知らされました。
 マリヤからの知らせを聞いた弟子のペテロとヨハネは、お墓に駆けつけましたが半信半疑でした。他の弟子たちは、恐れのため逃げ出し、また部屋に閉じこもっていました。
 エマオという村に向かって歩いていた弟子たちもそうでした。このクレオパたち2人の弟子たちには、イエス様が一緒に歩いてくださいました。しかし彼らは、よみがえりを信じることができなかったので、そのお方がイエス様であることがわかりませんでした。イエス様がクレオパたちの目を開いてくださいました。彼らは、イエス様を目の当たりにして、イエス様が復活され、生きておられることがわかりました。
 彼らが、一緒にいた旅人がイエス様であることがわかった瞬間、イエス様のお姿は見えなくなりましたが、彼らはもう迷ってはいませんでした。彼らはすぐに、エルサレムにとって返しました。復活されたイエス様にお会いしたことを弟子たちに話しました。しかし、それを聞いた他の弟子たちはそれでも信じられませんでした。

36これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた。37彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。 

 日曜日の夜のことです。イエス様は信じられずにいた弟子たちの部屋に現れました。それでもみなは最初、イエス様の復活を疑いました。「霊を見ているのだと思った」のでした。イエス様がご自分の体を触って確かめるように、また、食事をして霊の体でないことを示してくださいました。
 それからはだれも疑う者はありませんでした。「イエス・キリストは死からよみがえられた。私はその復活の主をこの目で見たのだ」と、自分のいのちをかけて伝えるようになったのです。
 イエス様は、その後、何度もご自身をお示しになり、復活のイエス様を見た人々の数は500人以上、600人近くになったでしょうか。

コリント人への手紙第1、15:3−6「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパ(ペテロ)に現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。」

 この聖書が記された時にも、復活されたイエス様に出会って、まだ生き残っている人たちがいたのでした。私たちはその人たちの証言によって、確かにイエス様が十字架で死んで、よみがえられたことを信じています。
 私たちはイエス様によって救われました。どんなに私たちの心が罪深くても、イエス様は私たちすべての罪を引き受けてくださり、私たちの代わりに十字架にかかってくださり、私たちの罪が赦されるという道を開いてくださいました。
 そればかりではありません。死からよみがえったことによって、私たちの最後の敵である死からも解放してくださいました。イエス・キリストを信じる者は一人も滅びることがなく、永遠のいのちを持つという約束を与えてくださいました。
 私たちの人生の最大の喜びは、この復活の主とともに歩むことです。復活の主イエス・キリストが私たちを招いてくださることに応えて、今日の主の晩餐の席に着きたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2010年4月4日