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2010年4月11日 主日礼拝説教
「試みに打ち勝つ主イエス・キリスト」(マタイの福音書4章1節〜11節)
イエス様はバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた後、荒野で悪魔からの試みに会われました。
1さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。2そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
イエス様は、「御霊に導かれて」とあるように、聖霊なる神様がイエス様を荒野へ導かれました。イエス様が荒野で悪魔の試みに会うことは、神様の導きであり、神様のご計画の中にあったことでした。イエス様が救い主としてふさわしいかどうかの神様のテストでもありました。
父なる神様は、人となられたイエス・キリストを救い主として歩む道へと導いておられましたが、悪魔は逆でした。どうやってイエス様を父なる神様から引き離すか。どうしたらイエス様を十字架による救いという道からはずすことができるか。そして、イエス様に悪魔の示す方法によって世界を治めさせようとする試みでした。
「四十日四十夜」の断食の後、イエス様は空腹を覚えられました。人間としてのイエス・キリストに対し、空腹という状況の中で悪魔は最初の試みを行いました。
3すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
悪魔はイエス様に、あなたが神の子なら全能の権限を与えられているのではありませんかとささやきました。それなら今その空腹を満たすために、あなたはこの石をパンに変えることができるはずですし、石をパンに変えてもいいのではありませんかと。
これは、神様は必要なものを与えてくださるかどうかの疑いを起こさせる試みでした。神のみこころに信頼できないで自分の力で行ってしまう。イエス様は、その力も持っておられるお方でした。それに対してイエス様は答えられました。
4イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」
これは申命記8章3節のみことばです。
申命記8:3「それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。」
モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民たちは、荒野に出てすぐに食べるものがなくなりました。その時、人々はエジプトでの苦しかった生活を忘れ、またその苦しさから解放してくださった神様を忘れ、「食べるものがない」「エジプトにいたほうが良かった」と不平を言ったのでした。その時、神様は天からマナという食べ物を降らせてくださいました。
その時からイスラエルの民は、旅をしている40年間、毎朝神様からのマナをいただきながら、神様は確かに生きておられる、いつも顧みて助けてくださることを体験したのでした。
イスラエルの民は、パンは大切だがパンを与えてくださる神様に信頼することはもっと重要であることを、マナを食べながら教えられたのでした。
イエス様に対する悪魔の試み、「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい」は、神様との関係を抜きにしてパンを得ることができるのではないかというものでした。父なる神様にパンを祈り求めるのではなく、信頼してその時を待つのではなく、あなたが神の子なら「その自分の力で、今ここで石をパンに変えたらどうか」ということだったのです。
イエス様は、みことばをもって答えられました。「人はパンだけで生きるのではない」と。人間は、確かに食べ物なしでは生きられません。しかし、食べ物を与えてくださる神様を知らず、そこに神様の祝福があることを知らなかったならば、食べ物もいのちもむなしいものに思えてくるのです。
イエス様は空腹を満たすことではなく、神様のみこころに従って生きる。神様の時に従って生きることを選ばれたのでした。イエス様は、父なる神様に限りない信頼をよせることと、神様のみことばによって生きていくという姿勢を示して第1の試みに勝たれました。
悪魔による第2の試みです。
5すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、6言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」
悪魔はイエス様をユダの荒野からエルサレムに連れて行き、神殿の頂きに立たせました。悪魔はイエス様に、ここから飛び降りなさいと言います。あなたが神の子なら神様はあなたを守ってくれるだろうというのです。しかもこの時は、悪魔も聖書のことばを出してきて、その根拠を示してみせます。
詩篇91:11−12「まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。」
悪魔の引用には、「すべての道で、あなたを守るようにされる」が抜けています。これは、私たちのすべの歩みにおいて神様が御使いを通して支え、石につまずかないように守ってくださるという詩篇です。それを悪魔は、高い所から飛び降りた時に、御使いが下にある石に当たらないように守ってくれると変えてしまったのです。悪魔は、自分の都合のいいように聖書を変えて読んでしまったのでした。
それに対して、イエス様はお答えになりました。
7イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」
申命記6:16「あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。」
イスラエルの人たちは荒野で、本当に自分たちを守ってくださるか神様を試みたことがありました。マサ、あるいはメリバと呼ばれるところで、水がなくなり神様につぶやいたのでした。
出エジプト記17:7「それで、彼はその所をマサ、またはメリバと名づけた。それは、イスラエル人が争ったからであり、また彼らが、「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、主を試みたからである。」
神を試みるとは自分が神様よりも上に立つということです。こういうことを見せてくだされば信じますとか、こういうことをしてくだされば従いますとか、病気がいやされたら信じますとか、そのほかたくさんあります。私たちもどうかすると、神様を自分の思いどおりにしようと試みるのです。
奇蹟を起こすかどうかは神様のみこころであり、神様が決めることです。私たちはただ神様に信頼し、ゆだねることが求められています。しかし神様は、私たちに決して失望を味わわせることはなさいません。なぜなら、神様はあわれみ深いお方であり、主権をもってすべてをご存じのお方であり、必ず私たちに最善のことをしてくださるからです。
詩篇37:5「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」
イエス様は、父なる神様のみこころに従うという道を歩まれました。イエス様は父なる神様の救いのご計画を実現するために、全くご自分を明け渡して従って行かれたのです。
イエス様は、この世の力をもってしてはどうすることもできない罪の問題、すべての人が聖なる神様の前では等しく罪人であるという動かしがたい事実から私たちを解放してくださるために、私たちのところへ来てくだいました。それがイエス様の生涯を通して、十字架によって明らかになりました。
私たちはイエス様の十字架を信じて、救いを受けることができました。このイエス様の救いを感謝して、今週も歩みたいと思います。
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