ゆりのきキリスト教会>テキスト>礼拝説教2010年5月2日
2010年5月2日 主日礼拝説教(創立4周年記念礼拝)
「幸いな人」(マタイの福音書5章1節〜6節)
イエス様の周りには、25節にありましたように「ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群衆が」やってきました。イエス様はこれら群集を見て、お話ししようと山に登られました。そば近くにはペテロたち弟子たちが座りました。
1この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。2そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。
話す時に口を開くのは当たり前のことですが、口を開くということばに、「悪魔の試み」の時にイエス様が答えられた「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」、その神のことばが、この時イエス様が権威をもって語られたことを思わされます。
3「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
10節まで8の幸いが語られます。この8つは、ギリシヤ語では最初に「幸いです」で始まり、次にそれがどういう人かが語られ、「なぜなら」という接続のことばに続いて、その理由が説明されています。
さらに8つを2つに分けることができます。前半の4つ「心の貧しい者」「悲しむ者」「柔和な者」「義に飢え渇く者」は神様に対する姿勢、後半の4つ「あわれみ深い者」「心のきよい者」「平和をつくる者」「義のために迫害されている者」は人との関係を表しています。
私たちが「心の貧しい人」を考える時、人に対して思いやりがなく自分のことばかり考えている人、向上心のない人などを思い浮かべるでしょうか。ここに出てくる「心」は、「霊」と訳されることばと同じです。ですから「霊に貧しい人たち」とも訳されます。このように、貧しい人とは霊のかかわりにおいて、あるいは神様との関係において貧しい人とも言える表現です。
貧しいということばは、すべてを失い、生きるために必要なものが何もなく、物乞いをしなければならないような人を表しています。ですから、心の貧しい者とは、自分には神様の前に何も誇るものがないことを自覚し、神様に助けを求めている者ということができます。
「幸いです」は単に幸せ、幸運ということでなく、神様と共にあるゆえの幸せ、神様の約束の中に生きることができる幸せです。
「天の御国はその人たちのもの」は現在形です。これは、天の御国がすでに始まっていることを示しています。いま天の御国が始まった、その御国がその人のものになる、この地上で天の御国のすばらしさを味わうことができる、と教えています。
天の御国とは永遠のいのちを与えられる、あるいは永遠のいのちに生きることと同じです。私たちは御国を得るために何かをするのではありません。心の貧しさを覚える者に、天の御国の祝福を神様が主権的に与えてくださるのです。
私たちは、神様とのかかわりにおいて自分の貧しさを知らされます。神様を忘れ、自分勝手な歩みをしてしまう者です。そのような私たちをイエス様はじっと見てくださり、「幸いです」とおっしゃってくださっています。イエス様は、私たちの貧しさ、罪を赦してくださるために、罪の罰を代わりに受けるために、十字架にかかってくださいました。そのことを信じる者に、「天の御国はその人たちのもの」という約束が実現するのです。
山上の説教を読んでいくと、私たちはこの山上の説教を守ることができない弱さと罪を覚えます。また私たちは神様が要求する義を自らの力で実行できないことを覚えます。しかし神様の義はそれを要求なさっています。
5:20「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」
その義を守ることができたのはイエス様だけでした。そのイエス様が義を全うし、十字架で私たちの罪を負って死んでくださいました。
山上の説教は、このようにしなさいと教えているのではなく、私たちの罪を自覚させ、キリストの十字架に導くためのものです。さらに、私たちは山上の説教を読む時に、自分の罪を自覚させられるとともに、御霊の働きによってこのような歩みをしたいと願うようになり、そのように御霊が少しずつ導いてくださるのです。そのことを覚えて、この山上の説教を見ていきたいと思います。
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