ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2010年5月9日


2010年5月9日 主日礼拝説教
「慰めを受ける人たち」(マタイの福音書5章3節〜6節)

■悲しむ者

 先週から「山上の説教」に入り、8つの幸福の1番目「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」を見ました。今日は2つ目から4つ目を見ていきましょう。

4悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。

 このことばは、悲しみの強い感情を表すことばです。人生において悲しみに直面した人、愛する人を失った人、弱り果てて嘆き叫んでいる人。そういう時に使うことばです。イエス様は、そのように悲しみ泣いている人が幸いです、とおっしゃいました。
 私たちは、聖書の中で悲しんでいる人として、イエス様を知らないと言ったペテロと、バテ・シャバとの姦淫の罪を犯してしまったダビデ王を思い出します。

マタイの福音書26:74−75「74すると彼は、「そんな人は知らない」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。75そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。」

 ダビデが姦淫の罪を犯した後に作った詩篇です。

詩篇51:1、11「1神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。
11私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。」

 ペテロ、ダビデは犯した罪に悲しみました。イエス様は、このような罪は心の中から出てくるとおっしゃいました。

マルコの福音書7:21−23「21内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、22姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、23これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」」

■慰められる

 これらの罪を犯した時、そしてその罪に対して何の解決が与えられないと感じた時、自らの罪に悲しみ、悔い改める人には神様から「慰められる」というのです。
 そのような悲しみは、「神のみこころに添った悲しみ」とも言われます。

コリント人への手紙第2、7:9−10「9私は今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。10神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」

 このような悲しみは、救いに至る悔い改めを生じさせ、主によって救われるという慰めの祝福が与えられるのです。イエス様は、悲しむ者に慰めを与える生涯を送られました。イエス様はそのようなお方であることが、イザヤ書に預言されていました。

イザヤ書61:1−2「1神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、2主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰める。」

■柔和な者

5柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。

 柔和ということばは、岩波国語辞典では「やさしく、おだやかなさま。とげとげしい所のない、ものやわらかな態度・様子」となっています。聖書の意味する柔和な人は、完全に服従し、完全に信頼して神にゆだねる人。自分にはその当然の権利があるにもかかわらず、神様に対してまた人間に対して主張しない人。神様に信頼してゆだね、神様に忠実に仕える人のことです。
 詩篇37篇に出てくる人が、その柔和な人を表しています。

詩篇37:1,3,7「1悪を行う者に対して腹を立てるな。不正を行う者に対してねたみを起こすな。
3主に信頼して善を行え。地に住み、誠実を養え。
7主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。」

 イエス様自身が柔和なお方でした。イエス様がろばの子に乗ってエルサレムに入城された時、このように語られました。

マタイの福音書21:5「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王があなたのところに来られる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」

 十字架にかかられたとき、イエス様は全く神様に信頼し、神様にゆだねられました。

ペテロの手紙第1、2:22−23「22キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。23ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」

■地を受け継ぐ

 そのような人が「地を受け継ぐ」と言われます。「地を受け継ぐ」とは旧約時代、ユダヤへの神様からの最大の約束でした。ユダヤの民は、たとい敵が攻めてきても、危機が訪れようとも、神に信頼し続けるなら約束の地を受け継ぐことができると約束されていました。しかし、彼らは神に信頼できず、神様にそむき、ほかの神々に心を移していき、「地を受け継ぐ」という約束を最後まで受けることができませんでした。
 しかし今イエス様は、柔和に生きる人は地を受け継ぐことができると約束してくださいました。それは、地上の支配者になるという旧約の約束よりもっと大きく、救いの完成としての、神の国を受け継ぐ者とされる新しい約束でした。

■義に飢え渇く者

6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。

 義とはキリスト教では大切なことばで、それは神様が持っていらっしゃる特質です。神様は罪を赦してくださるお方でありますが、罰すべき者を決して赦さないお方、そのように正しいお方として義なる神様と言われています。
 義に飢え渇いている人とは、神様にさばかれまいとして、神の前に義を立てようと努力しても、それができないと知りつつも、なおもそれが満たされることを求めている人です。自分の弱さ、自分の足りなさ、自分の罪を知り、心がむなしい状態です。
 「義に飢え渇く」とは、義に満たされたい、義が与えられることを強く望むことです。

■満ち足りる

 「その人たちは満ち足りる」のです。イエス様はご自身のいのちを与えて、その飢え渇きを満たしたいと願われました。

ヨハネの福音書6:35「イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」」

ヨハネの福音書10:15「わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。」

 飢え渇きが続けば、それは死を意味します。それがイエス様の与えてくださるいのちパンによって、満ち足りることができるようになるのです。いのちのパンとはイエス様ご自身です。イエス様が十字架の死によって、私たちの罪にイエス様の義を覆いかけてくださったのでした。

■義と認められる

 8つの幸福の前半の4つを見てきました。この4つは、神様に対する姿勢を表していました。
 イエス様は「心の貧しい者」「悲しむ者」「柔和な者」「義に飢え渇く者」は幸いです、とおっしゃいました。それは、「天の御国はその人たちのものだから」「その人たちは慰められるから」「その人たちは地を受け継ぐから」「その人たちは満ち足りるから」という約束が与えられているからでした。
 それは、この地上でもその一部が受けられるし、やがて地上の生涯を終えて天の御国に入った時に、すばらしい祝福を受けるという約束でした。その約束の土台となっているのが6節の、私たちは義に満ち足りるようになる、私たちが義と認められるということです。
 その約束は、すでにイエス様の十字架によって私たちの前に示されています。

ローマ人への手紙3:21−24「21今は神の義が示されました。22すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。23すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、24ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」

 イエス様の義が私たちの罪の体に着せられて、今や私たちは義であると神様が見てくださいました。それが来るべき世では「満ち足りる」と表現されているように、私たちのすべての罪も、私たちの欠点も、欠陥も赦され、正され、すべて完全なるものになると約束されているのです。
 そのようなすばらしい約束を、またイエス様が約束してくださった4つの幸福を今日もう一度覚えて、この1週間を過ごしたいと思います。


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