ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2010年5月16日


2010年5月16日 主日礼拝説教
「神を見る幸い」(マタイの福音書5章7節〜8節)

■はじめに

 先々週から、「山上の説教」の冒頭、8つの幸福を見ています。今日は残りの4つのうちの2つを見てみましょう。
 前半の4つは、神との関係において与えられる幸福と言われており、神様との関係が回復させられて、天の御国を受け取ることができる幸福について語られていました。後半は人間との関係の回復によって与えられる幸福と言われています。人間との回復と言っても、神様との回復が前提となりますので、天の御国を受けた者、神様の義に満ち足りた者はどう歩んだらよいかかが語られます。

■あわれみ深い者

7あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。

 あわれみとは、人間に対する態度を表しています。処罰しなければならないときに処罰しない。かわいそうだからいじめないなど、あわれむとは同情する心の状態を考えます
 しかし、イエス様が言っていることは積極的なあわれみです。気の毒に思う。かわいそうに思う。なさけをかけるということにとどまらないで、それを自分の苦しみ、自分の悲しみとし、それを行動に現すことです。
 あわれみも義と同様、神様のご性質の一つです。

申命記4:31「あなたの神、主は、あわれみ深い神であるから、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、あなたの先祖たちに誓った契約を忘れない。」

 神様のあわれみは、そのひとり子をこの地上に送ってくださり、その十字架の死によって罪の赦しが与えられました。神様のあわれみは、そこに最もよく表されています。神様がそのひとり子イエス様をこの世に遣わされたのは、人間が罪によって滅び去ってしまうことにあわれみをかけてくださったからでした。

ペテロの手紙第1、2:10「あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」

 イエス様は、私たちも人に対してあわれみをかけるようにと、このようなたとえ話をもって教えてくださいました。
 あるところに借金をしているしもべがいました。それは一生かかっても、とうてい返すことのできない膨大な額の借金でした。それを、貸した主人が、かわいそうに思い、全額免除してあげました。喜んだその人が帰る途中、自分がわずかなお金を貸しているしもべ仲間に出会いました。彼はその友人に、その首をしめて借金を返すように迫りました。「もう少し待ってくれ」と、猶予を願っている友人を赦せないで、そのまま訴え、牢に入れてしまったのでした。それを見ていた別の仲間が主人に事の一部始終を告げました。そのとき主人が彼を呼び出し、こう告げました。

マタイの福音書18:32−33「32そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。33私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』」

 神様は、私たちの返しきれない罪を、あわれみをもって赦してくださいました。そのあわれみの心を、今度は自分の周りの人にかけてあげなさいとイエス様は教えたのでした。
 こうも教えておられます。

マタイの福音書25:35−40「35王は言います。『あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、36わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。……40まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」

 私たちが、隣人や兄弟姉妹にあわれみを示すことは、神様に対してしたことになるというのです。

■あわれみを受ける

 イエス様は、あわれみ深い者は「あわれみを受ける」と約束されました。私たちは、天の御国で神様からあわれみをいただけるのです。私たちが今、人々に与えるあわれみは、神様によって与えられたあわれみの感謝から出てくるものです。神様のあわれみによって罪が赦されていることを感謝して、その感謝の思いから「最も小さい者たちのひとりに」あわれみをかけて、共に歩みたいと思います。

■心のきよい者

8心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。

 心は、私たちの思い、欲望が出てくるところです。きよいは、純粋、混じりけのないことを示しています。
 人間はアダムによって最初の罪を犯してから、その心から出てくるものは悪いものになってしまいました。人間が大洪水のさばき受けた時、箱舟に入って助かったノアが、箱舟ら出た時に神様から言われたことばです。

創世記8:21「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。」

 このように、人は生まれながら悪であり、その心はきよくないと聖書は教えます。私たちは心の状態に関係なく、自分を飾ることができます。それをイエス様は、パリサイ人の中にあると言って批判されました。

マタイの福音書23:27−28「27わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。28そのように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。」

 はたして私たちは、このきよい心にいることができるでしょうか。イエス様は、十字架の贖いによってすべての罪を赦してくださり、私たちがイエス様を信じ、イエス様にしたがって行こうと決心したその時から、私たちの心はきよくしてくださいました。そう神様が私たちの心を見てくださっているのです。

使徒の働き15:9「私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。」

ヨハネの手紙第1、1:9「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

 私たちは、やがて神様の前に出る時に、すっかりその罪が消えて、きよい者として立つのです。天の御国でそうなることは確かな約束ですが、私たちの現実の心は、相変わらず思いはかることは悪です。
 では私たちは今、どう歩んでいったらいいのでしょうか。詩篇にこういうことばがあります。

詩篇24:4−5「4手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。5その人は主から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。」

 「心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けない人」、ひたすら、神様に心を向け、神様を求めている人、それが「心のきよい人」の一つの姿であるのです。私たちはそのように、こころのきよさを求めて歩みたいと思います。

■神を見る

 イエス様は、そのような人は「神を見る」とおっしゃいました。旧約聖書では、神を見ることは特別な祝福でした。汚れた者、人間は、神を見ることができないからです。

出エジプト記33:20「また仰せられた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」」

 今私たちは、御霊の働きによって、神様を見ること、神様を感じることができます。しかし、それは十分ではありません。今私たちが見るのは、ぼんやりした神様の御姿です。しかし、やがて私たちは神を直接見ることができるようになります。心が全くきよくされ、神様と顔と顔を合わせて見ることができるのです。

コリント人への手紙第1、13:12「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」

 その時、神様と顔を合わせて相まみえた時、私たちはあわれみを受け、私たちの衣は、真っ白くされ、飢えることも、渇くこともなく、私たちの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。私たちのイエス様が、十字架によって私たちの衣を白く洗ってくださり、私たちをいのちの水の泉に導いてくださるからです。
 私たちは、今日、やがて、神を完全に見ることができる幸いを感謝して歩みだしたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2010年5月16日