ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2010年5月30日


2010年5月30日 主日礼拝説教
「地の塩、世の光」(マタイの福音書5章10節〜16節)

■迫害されている者

10義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

 イエス様を信じているということで迫害される者は、この時点ではまだいませんでした、イエス様が十字架にかけられた後、弟子たちへの迫害が始まり、使徒の働き7章でステパノが最初の殉教者となりました。イエス様は、将来そのようなことが起こることを知っておられ、そのような者に「天の御国」を約束されたのでした。
 8つの幸福は、みなイエス・キリストへの信仰の中に見出されるものでした。イエス様は、人間の心の貧しさ、罪、悲しみを知ってくださり、あわれんでくださり、神様が人間に対して求める義を十字架の死によって果たしてくださり、神様と人との平和を実現してくださいました。イエス様は十字架によって、神様と人間との間に道をつけてくださったのでした。
 だれでもイエス様を通して、まことの幸いな人になることができるのです。しかし、それに迫害が伴うことがあるのです。

11わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。12喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。

 これは、9番目の幸いな人と言うこともできますし、8つ目の迫害されている者の幸いを、呼びかけを「あなたがた」と変えて、群衆ではなく直接弟子たちに語られたことばとして見ることもできます。「わたしのため、イエス様のため」、ただ信仰を持ったという理由で、ありもしないことで迫害されることになるというのです。
 それは、イエス様の教えがそれまでのユダヤ教の教えとは全く違う教えであり、その生活と集まりは、その当時の社会には受け入れられないものだったからでした。そのゆえに彼らは迫害されるのです。
 後に、そのことを体験したパウロはこう書きました。

テモテへの手紙第2、3:12「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」

■迫害された者への報い

 そのような迫害を受ける弟子たちに、イエス様は「喜びなさい。喜びおどりなさい」と勧めます。「喜びなさい」を表すことばを2つ重ねて、この上ない喜びを表しています。それは、天で大きな報いがあるからとイエス様は教えられました。
 私たちは、神様から天の御国に入ることができるというすばらしい約束のほかに、この地上で歩んだことに応じた報いが与えられます。

コリント人への手紙第2、5:10「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」

 イエス様が「喜びなさい。喜びおどりなさい」と言われた大きな報いは、すべての信者に与えられる報いより、迫害を受けた者にはそれ以上のものが加えられ報われるというのです。しかも預言者と比較されています。神のことばを語り迫害された預言者もそうであったように、あなたがた迫害された者は大きな報いを与えられるのです。
 イエス様は、十字架にかかられる前、最後の晩餐の席でこのようにおっしゃいました。

ヨハネの福音書16:33「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

■地の塩

 次からの個所は、幸いな人と言われている私たちは、この世ではどういう者たちであるか、そしてこの世から迫害を受けるような目にあうかもしれない私たちは、どう生きるかが語られています。

13あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。

 まず塩の役割を通して、私たちがどう生きるかが語られています。塩は味付けのため、また腐敗を防ぐものとして使われます。地の塩であるということは、この世で何かの存在となることを言っています。
 しかも、これは「塩になりなさい」「塩になるでしょう」と言われているのではなく、今現在すでに「塩である」と言われているのです。
 彼らはすでに「天の御国」の民となった者たちでした。ですから、地の塩として、天国に入る資格を得るために努力するよう勧められているのではありません。すでに与えられている約束に感謝して、神様の栄光を現すためにこの世で生きるように勧められているのです。

ローマ人への手紙14:8「もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」

 その者たちがこの地にあって、塩の存在として生きる意味があるのです。「もし塩が塩けをなくしたら」、塩がそれらの役割を失ったら、何か不純物が入ってしまったら、ただ単なる塊になってしまいます。そうなった塩は「もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです」。
 私たちはこの世にあって、塩のような存在であり、その役割を果たすようにとイエス様はおっしゃいました。あれをした、これをしたではなく、この世にクリスチャンとして生きること、それが塩としての役割を果たしているのです。

■世の光

14あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。

 これも塩と同じ、未来でも命令でもなく、「あなたがたは、いま世界の光です」と言われています。ですから何か努力をして光を放つように言われているのではありません。
 イエス様は、ご自分のことをこう言われました。

ヨハネの福音書8:12「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」」

 訳は違っていますが、原文では「世の光」と「世界の光」は同じことばです。イエス様を信じた人は、イエス様の光によって「光の子ども」とされています。イエス様は、イエス様のもとに来た人々にこうお話しなさいました。

ヨハネの福音書12:36「あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」

■光を輝かす

15また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。16このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

 そのように、すでに光となっているあなたがたは、人々の前で光を輝かせなさいとおっしゃいました。イエス様は、光を「あなたがたの良い行いを見て」と言い換えられました。私たちの態度、行いが人々に好感をもって受け入れられるように、そのような良い行いが求められているのです。
 与えられたイエス様の光を輝かす。それは、自分のため、この世のためでもなく、「天におられる父」があがめられるためです。
 地の塩は自分の姿を消して、ほかのものの中に浸透してはじめて役立ちます。だれにも知られずに神様に祈っていること。それも家族のため隣人のため、社会のために、地の塩としての大きな働きとなっているのです。
 一方、光は見えなければ意味がありません。それが小さいということは関係ありません。暗やみの中では、どのような小さな光でも輝くのです。
 イエス様は、このように生きる時に迫害にあうかもしれないと言われます。しかし、私たちは地の塩、世の光として生きないならば、迫害を受けないでしょう。私たちは、その緊張の中で賢く生きるように求められています。

エペソ人への手紙5:15−17「15そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、16機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。17ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。」

 「天の御国はその人たちのものだから」。私たちのそれぞれの使命は違うし、歩む道は違います。神様に示された道、それを歩むことは義のために迫害を受ける道かもしれません。あるいは、人知れず地の塩として社会に生きることかもしれません。世の光として、イエス様からいただいた光を高く掲げることかもしれません。私たちは、神様か与えられたそれぞれの道をしっかり歩みたいと思います。

ヨハネの手紙第1、5:4−5「4なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。5世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」


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