ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2010年6月6日


2010年6月6日 主日礼拝説教
「律法を成就されるキリスト」(マタイの福音書5章17節〜20節)

■はじめに

 イエス様は山上の説教において、イエス様を信じる者に与えられる幸せ、祝福を語られ、その人たちはこの世で「地の塩・世の光」として生きるように語られました。続いて、山上の説教は律法について入っていきます。
 律法を堅く守り、それによって天の御国に入ることができると考えていた人たち。一方、律法から解放されて自由にされ、天の御国の民とされた人たち。彼らは、これまで教えられてきたユダヤの律法に対してどう考えたらよいのか。それを守るのか、捨て去るのか。それらは、新しくイエス様の弟子となった人たちにとって大きな問題でした。

■律法、預言者は廃棄されない

17わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。

 イエス様と律法学者の教えとが対立するかのような事件が次々と起こります。最も多かったものは、安息日の規定に違反していると見られた行動でした。安息日には休んで何もしてはいけないという規定があるにもかかわらず、安息日に病人をいやしたり、治った病人に床上げを命じたりしました。
 また、律法学者たちが付き合ってはいけないと言っていた罪人、遊女、取税人と何へだてなく話をし、食事を共になさいました。そのような非難に対して、イエス様は「律法や預言者を廃棄するためにではなく、成就するために来た」とおっしゃったのでした。
 「律法や預言者」とは旧約聖書全体を指す言い方です。イエス様は、律法学者や、それに従う人たちに、旧約聖書をどうでもいいものとはおっしゃいませんでした。律法学者は、旧約聖書に加えて、旧約聖書を解釈した「言い伝え」と呼ぶものも含めて、神様の命令としました。イエス様は、そのように解釈されたものを無効とされ、聖書本来の意味を神の子であられるイエス様ご自身が示されたのでした。

■律法、預言者は成就される

 イエス様は、旧約聖書の教えは廃棄されない、むしろ成就されるものと教えられました。旧約聖書の預言は、神様は人間を救うために救い主を送ると約束していました。イエス様の誕生、生涯、十字架の死、復活もみな、旧約聖書に預言されていたことの成就でした。またイエス様は、すべての律法を守るということで、律法を成就されたお方でした。イエス様は父なる神がお望みになる律法を完全に実行なさいました。

ヨハネの福音書8:29、46「29わたしを遣わした方(父なる神)はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行うからです。…46あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。」

 このようにイエス様は律法と預言者を成就されたのです。

18まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。

 イエス様は、この世界が続く限り、律法はすたれない。無効とはならないと教えられました。

■天の御国で小さい者と呼ばれる

19だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。

 ここでイエス様は、「戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破った」者は小さい者と呼ばれるとおっしゃいました。それは天の御国に入る人のことを言っておられます。
 律法学者、パリサイ人は律法を守らなければ神の国に入ることができないと教えていました。イエス様は、この世界が続く限り律法はすたれない。無効とはならないと言われたのですが、それを守ることを神の国に入る条件とはされませんでした。人はそれを守ることができないことを知っておられたからです。
 ユダヤの人たちは律法を守っていると言い切ることができました。ある青年がイエス様のところに来て、どうしたら永遠のいのち、天の御国に入ることができるかを問いました。

マタイの福音書19:18−20「18イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。19父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」20この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。」

 この後、青年はイエス様に言われて、本当は守ることができていなかったことに気づくのです。

■律法を完全に守られたイエス様

 律法を完全に守ることができたのはイエス様だけでした。イエス様だけがすべての律法を守り行ったということで、神様の前に立つことができるお方でした。

ローマ人への手紙10:5「モーセは、律法による義を行う人は、その義によって生きる、と書いています。」

 イエス様が律法によって神様の前に義とされたのに、十字架によって死なれました。十字架は、私たちの代わりに受けた神様のさばきでした。ですから私たちは、天の御国に入ることができるのです。しかし、天の御国で「小さい者」「偉大な者」と呼ばれるような違いがあるというのです。
 では、私たちは小さい者でも天国に入れるならそれでいいと考え、律法を破り続けるのでしょうか。恵みによって救われた者はそうはならないはずであるとパウロは語りました。

ローマ人への手紙6:1−2「1それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。2絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」

 また戒めを守る者は、それが喜びであるとヨハネは言いました。

ヨハネの手紙第1、5:3「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」

 イエス様はここで、「小さい者」でなく神の戒めを守り、喜ぶ者となって「偉大な者」と呼ばれるようになりなさいとおっしゃったのです。私たちは完全にではありませんが、少しずつ少しずつ、聖霊の働きにより、聖書の教えに従い、喜ぶことができるようになるのです。

■律法学者、パリサイ人の義にまさる

20まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。

 当時もっとも天の御国に近いと言われていた人たちは律法学者、パリサイ人でした。イエス様は、その義にまさらなければ天の御国には入れない。パリサイ人の義では、天の御国には入れないと言われました。人間の力では天の御国には到達できない。神様の基準はもっと高いのです。
 イエス様だけが「律法学者やパリサイ人の義にまさり」、「神様の目にもかなう義を備えていた」のでした。私たちがパリサイ人の律法にまさるには、イエス様の義をいただくしかありません。イエス様はそれを与えるために来てくださいました。イエス様は、神様の前に義とされる歩みをなさったのに、私たちの罪のために十字架にかかり、よみがえってくださいました。私たちは、それを信じることによって、私たちの罪が赦され、神様の前で義とされるのです。
 それが、パリサイ人の義にまさる義であり、それによって天の御国に入ることができるのです。

ガラテヤ人への手紙2:16「しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」

 私たちは、律法を成就され、十字架にかかられたイエス様を信じることによって、イエス様の義をいただき天の御国に入ることができました。そのことを今日も覚え、感謝して、このあとの聖餐式に臨みたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2010年6月6日